[県立音楽堂の挫折]

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【県立音楽堂】
 浜松市に県立音楽堂を、という静岡県の構想が公にされたのは昭和六十一年のことである。これを受けて、翌六十二年五月浜松市議会に県立音楽堂建設促進特別委員会が設立され、七月、市は音楽堂誘致を正式に表明。平成二年三月になって、県ではそれまでの音楽堂建設計画を音楽公園計画として基本構想をまとめた。建設地は村櫛町の庄内半島南端と浜名郡舞阪町の渚園とし、周辺の湖面と複合施設を整備するというものであった。平成四年十月、県音楽公園基本計画がまとめられた。しかし、この計画はバブル崩壊後の平成五年頃から見直しが始まり、紆余曲折を経て結局は実現せず幻に終わっている。ただし、前々から始まっていた用地買収はその後も続き、平成十一年に完了。最終的には、用地は平成十六年の国際園芸博覧会(浜名湖花博)に使われ、終了後、会場の一部が浜名湖ガーデンパークとして整備される。音楽公園構想は、ガーデンパーク計画へと大きく変更されて結着を見たわけである。