図3-62 『浜演』No.100
半世紀という長期にわたって存続している浜松の演劇観賞団体、浜松演劇観賞協議会(以下、演観協と略称。なお、平成十八年二月からは浜松演劇鑑賞会と改称)が発足したのは昭和三十七年九月のことである。
浜松市立中央図書館には、演観協の歴史を知る資料として①「浜演」№100(浜松演観協、昭和五十一年刊)、②「浜演」№200(浜松演観協、昭和六十二年刊)、③「浜松演劇観賞協議会 三十周年記念誌」(演観協30周年記念誌編集委員会、平成四年刊)の三点がある。それぞれ、年譜的なものを載せているが、発足当時のことを詳細に伝えているのは、①に掲載されている「浜松演観協13年のあゆみ」(以下「あゆみ」)である。以下「あゆみ」によって初期の演観協の様子を見てゆきたい。
浜松市に演劇観賞団体が生まれたのは、昭和二十八年頃のことで、設備の不十分な市の公会堂を会場に劇団を招き、様々な悪条件の中で鑑賞会が開催されていた(当時の状況については、①の座談会の記録「浜松演観協以前のこと―」が参考になる)。そういう状況のところへ、昭和三十六年七月、市民会館が完成すると浜松勤労者演劇協議会と浜松市民劇場という、サークルを基礎とする二つの演劇観賞団体がほぼ同時に生まれた。この二つの組織が話し合いを重ねた末一つになり、昭和三十七年九月、発足を見たのが浜松演観協であった。
発足例会「アンネの日記」は会員数三千三百二十六名。「目をみはる様な画期的な出来ごと」であった。第二回の例会は「三文オペラ」。この時、会員数は前回に比べて五百人減という大幅な減少であった。「あゆみ」の筆者は、「まさしくこの基礎がための時期に演観協は基本的な点であやまりをおかしていた。それは三千名という会員をしっかりと組織することがなされていなかった点と運営体制、機関の確立が充分できなかった事である。」と総括している。ここに記されている会員のしっかりとした組織化の問題は、会員数の増減が会の財政に直結するだけに以後の会の長らくの課題となる。この問題が会費を月額納入制にすることで解決をみるのは、発足後二十年を経た昭和五十七年のことである。発足した演観協は、このほかに会員数の確保と関連するステージ数決定問題、市民会館が出来たとはいえむつかしかった会場確保問題、当時非常に高率であった入場税撤廃要求問題、また運営をめぐる組織内部の問題等々を抱えながら活動を続けてゆくこととなる。
①の時期(昭和三十七年~五十一年二月)、例会数は九十七回(例会なしが三回)で、特別例会が十六回開かれている。ステージ数は、基本的には二ステージ(一ステージ、三ステージが数回ずつ)で、会員数の平均は二千二百五十一人(昭和五十年十一月まで)。会費は昭和三十七年頃は三百円、昭和五十一年頃には千三百円である。「あゆみ」の末尾は「「越前竹人形」例会から三ステージを決行すること、そのためすべての活動を三ステージの維持、持続、発展の展望を明らかにすべく集中的にとりくんでいる。」という言葉で結ばれている。
以後、演観協は、既述したように昭和五十七年から会費を月額納入制とし、また、平成十八年に会の名称を浜松演劇鑑賞会と改めるなどの改革を経つつ、平成二十四年には創立五十周年を迎え十一月の時点で例会は四百七回を数えるという実績を示している。
【浜松高校演劇教室】
ところで、「あゆみ」の昭和三十九年時点のところに、「「夕鶴」例会では浜松市内の十一の高校が六日間にわたって「演劇教室」をはじめて開催した。その後毎年一度この企画はつづけられ「浜松高校演劇教室」として定着した。」という記述がある。これは、浜松高校演劇教室(以下「教室」)の発足を指すもので、「教室」は浜松方式と呼ばれて全国的にも注目され、今日まで続いている浜松地域の高校の教育活動である。「教室」の内容とその歴史をまとめた資料としては、次のようなものがある。
①『演劇教室十年』(浜松高校演劇教室、昭和四十九年刊)
②『演劇教室三十年』(浜松高校演劇教室、平成六年刊。巻末に「二十周年記念誌」(未刊)の原稿を掲載)
③『演劇教室四十年』(浜松高校演劇教室、平成十六年刊)
「教室」発足の経緯を伝える資料としては、②に掲載されている「秀れた舞台芸術の持つ教育力の豊かさ―25周年によせて―」があるので一部を引用する。筆者の鈴木嘉弘は、「教室」発足に当たって活動したメンバーの中心的人物で、当時浜松西高等学校の教諭、文章執筆当時(昭和六十三年)は静岡高校校長であった。
浜松高校演劇教室の第一回公演は、昭和三十九年十一月の「夕鶴」であった。(中略)
その頃、当時としては東海地方随一の浜松市民会館が完成、よいホールで、よい出し物を、低料金で生徒に観せてやりたい、そのために市内高校がまとまって演劇教室という形で鑑賞できないだろうかという声が大きくなってきていた。
そこへ浜松演劇観賞協議会から「山本安英とぶどうの会」の「夕鶴」をやらないかとの話があり、正にとんとん拍子で話がまとまり、十一校八千人六ステージの演劇教室が開催されることになった。(後略)(「演劇教室通信」第9号)
こうして、全国初の高校演劇教室は実現した(規約制定は昭和四十一年)。以後の「教室」の沿革については前記①に「十年の歴史」(林弘記)、②に「演劇教室上演史」(59年度特別委員会・編)という詳細を極めた記述があり、③には「浜松高校演劇教室略年表」がある。
参加校は昭和四十二年から二十校を超え、四十六年頃からは浜松地域のほぼ全校の参加となる。その後も「教室」は、地域の理解と関係高校教員たちの熱意と信念によって、発足以来五十年となる今日(平成二十五年で五十周年)まで息長く続いて来ている。ただし、授業時間の確保(=行事の精選)、経営上の問題(私学の場合)など学校を取り巻く環境が厳しさを増している現在、参加校は減少傾向にある。「教室」は参加校の拡大、運営の効率化、理念の進化を課題として全般的な見直しが進められている。
なお、「教室」は平成十九年度浜松市教育文化奨励賞を受賞している。「演劇教室通信」(第49号、平成十九年十二月十二日)は、このことを「多くの文化・芸術創造団体が受賞してきたこの賞を、鑑賞する側が評価されて受賞したことの意義は大変大きい」と報じている。