浜松史蹟調査顕彰会

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 浜松市の郷土史研究家の有志により、浜松史蹟調査顕彰会(以下、顕彰会)が発足したのは昭和五十年九月のことである。会発足のいきさつを詳細に伝える資料としては『遠江』二十号(平成九年三月発行)に掲載された「寺田忠次・飯尾晃三両先達の遺徳を偲ぶ―浜松史蹟調査顕彰会の創設をめぐって―」という一文がある。これは当時顕彰会の理事の一人であった大野木吉兵衛の執筆によるもので、会発足までの複雑ないきさつが関係者への敬意を込めて感動的に記されている。以下は、全面的にこの文章に基づくものである。
 顕彰会の創立と体制作りは、初代会長寺田忠次、副会長飯尾晃三の二人の尽力に負うところが極めて大きかった。同会発足の前段階として、市には真淵翁没後二百年にちなむ顕彰事業計画があったが、その計画があえなく崩れてしまったという苦い経験があった。それから数年後、事態は大きく動くこととなる。平山市長が「浜松では、国学の開祖真淵翁ゆかりの遺跡を荒廃させたままだ」との外部の批判の声を耳にしたことがきっかけであった。市長は当時の教育長飯尾晃三に検討を依頼。飯尾は親友で浜松の財界の有力者であり市長の後援会の重鎮であった寺田忠次に協力を要請する。以後、飯尾・寺田二人の熱意と努力に、浜松市の代表的文化人菅沼五十一と、市立中央図書館館長大塚克美らの事務的な協力が加わった。こうして昭和五十年九月、浜松史蹟調査顕彰会が誕生する。発足当時の規約の第3条(目的)には次のようにある。
 
  この会は、私たちが生れ育ち、現住している地域社会の過去をかえりみ、地域の発展に尽し、地域の殖産興業ならびに文化の振興に努められ、歴史を荷い、歴史を創つてきた地域の先覚者をたずね、その史蹟を調査し、その事蹟を顕彰し、もつて後世に伝え、郷土愛を育成することを目的とする。
 
 会長には寺田、副会長には飯尾が就任した。会は翌年十二月に社団法人となる。この時二人は基金の募金と高額会費を納入する特別会員の勧誘に献身的に奔走する。
 以後、会の成し遂げた業績としては、後述の出版事業のほかに、会の助言や協力により、浜松市が賀茂真淵翁顕彰碑の建立や賀茂真淵記念館の設立に動いたことが特筆される。前者は浜松市制七十周年記念事業の一つとして、昭和五十六年十一月三日、東伊場一丁目の真淵の生家跡に建てられた。左端に賀茂真淵翁誕生の地と記され、水野欣三郎の製作による真淵の胸像、「九月十三日夜県居にて」の連作五首、主要著書などが記されている。後者は、顕彰碑の除幕式の頃から建設が具体化、翌年十一月に縣居神社の境内の一部を記念館の用地として市が買収、昭和五十八年から建設に着手、同五十九年十一月三日に開館を迎えた。開館に先立つ四月には記念館の運営を浜松史蹟調査顕彰会に委託、同会の事務局も会館内に置かれることになった。
 一方、縣居神社は記念館の用地として市に売却した資金と縣居神社建設奉賛会(寺田忠次会長)による浄財などで社殿を建設することを決め、記念館の開館に先立つ昭和五十九年四月十五日に遷座式、十六日に奉祝祭が行われた。こうして、市民念願の賀茂真淵顕彰の大きな事業が実現した。
 
【『遠江』】
 会の出版事業としては、まず郷土誌『遠江』の発行がある。創刊号の発行は昭和五十一年十二月。百十三頁、十編の論稿を収めている。以後、同誌はほぼ年一回の発行が続けられ、平成二十四年時点で三十五号が発行されている。そのほかの刊行物として最初のものは『浜松の史跡』(共著、昭和五十一年刊)で、これは非常な好評で第三版まで重ねた。次いで『浜松の史跡・続編』(共著、昭和五十二年刊)、『遠州産業文化史』(共著、昭和五十二年刊)、『賀茂真淵―生涯と業績―』(寺田泰政著、昭和五十四年刊、第七項に詳述)などが次々に刊行された。このほか、顕彰会の刊行物の中で人気のあったのは「遠江州敷知郡浜松御城下略絵図」をはじめとする絵図や郷里に関係する歌川広重、五雲亭貞秀などの浮世絵や錦絵の復刻であった。
 浜松史蹟調査顕彰会は、法人見直しの動きの中で、平成二十五年度からこれまでの社団法人から一般社団法人へと法人としての在り方を変えつつ活動を続けている。

図3-63 『遠江』創刊号