[ひくまの出版の活動と郷土誌刊行]

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【ひくまの出版 那須田稔】
 難病の少女の日記『さと子の日記』が、地元の出版社ひくまの出版(社長、那須田敏子)から刊行されたのは昭和五十七年二月のことである。これが世間の高い評価を得て、初版三千部が売り切れとなり翌年度の青少年読書感想文コンクールの課題図書(小学校高学年の部)にも選ばれた。同書はその後も版を重ねて、平成二十四年時点で販売部数百万部を超えるベストセラーになった。敏子社長と夫稔(同社顧問)はともに浜松出身である。稔が児童文学者として中央で活躍していた関係で長らく故郷を離れていたが、稔の母の死をきっかけに帰郷して立ち上げたのがひくまの出版であった。昭和五十三年暮れのことである。最初に手掛けたのが『シリーズ遠州』全五巻。郷里の良さを紹介する本を作ってみたいということで始めたシリーズであったが、この頃は経営的にかなり苦しかったらしい。
 
【『土のいろ集成』】
 戦前の大正十三年(一九二四)に創刊され、戦争中の一時期の中断を経て、戦後の昭和四十三年まで続いた郷土誌『土のいろ』全百十四冊(『浜松市史』四 第三章第九節第六項参照)を、全て翻刻(原本はガリ版刷)した『土のいろ集成』全十二巻の刊行が開始されたのは昭和五十六年のことである。足掛け八年にわたるこの大事業が完結するのは昭和六十三年(別巻と索引の刊行は平成三年)のことであるが、全国に誇り得る郷土誌『土のいろ』の翻刻を企画したところに同社の姿勢が表れており、この出版の意味は大きい。刊行に当たっては土のいろ集成刊行会が作られたが、メンバー六人の中に同社顧問の稔も加わった。第一巻に付された「月報」1に稔は次のように記している。
 
  「土のいろ」百十四巻との出逢いは「ひくまの出版」編集部にとってまさに事件であり驚きであった。大正十三年から約半世紀の歳月をかけて積み上げた民俗の宝庫の存在を確かめ得た時の感慨は筆舌に尽しがたい。約一年の時間のなかで私どもは「土のいろ」の原本ととりくんだ。ガリ版刷りの文字どおり手づくりのこの民俗誌からは、大正、昭和、戦中、戦後と生きぬいた先人たちの鼓動が伝わってくる。
 

図3-64 『土のいろ集成』第一巻(箱)

 同書は七百五十部の限定出版であった。
 『さと子の日記』の刊行は、前述のように昭和五十七年。これが大ヒットし、その後児童書を出すきっかけとなった。この頃から事業が安定する。出版業界の機能のほとんど全てが東京に集中しているのが現状であるが、遠州地方の文化伝統に立脚して全国的視野で編集するというのが同社の方針である。同社では、子供のための、また、子供の心を持ち続けている人々のための絵本、童話、少年・少女文学、ノンフィクションなど、優れた創作児童文学を中心とした本を全国に送り出している。