【市立郷土博物館 蜆塚分館】
蜆塚四丁目の地に、浜松市博物館がオープンしたのは昭和五十四年四月七日のことである。戦後三十年余が経過し、生涯学習ということが叫ばれ社会教育の振興が盛んに言われるようになった時期であった。開館に際して作られたパンフレットに、館の基本理念(性格)として次の三つが示されている。
(1)浜松という地域の歴史文化が形成されてきたようすを、市民が目でみながら学習し、新しい文化を創造して行く場としての博物館とする。
(2)考古、歴史、民俗資料を扱う人文系の博物館とする。
(3)市民の学習や教育の場とするために博物館は研究機関としての機能も持たせる。
(2)において「人文系の博物館」と明記されている点が注目される。開館に至るまでのいきさつはかなり複雑であった。まず館の建設と関連のある事柄として、昭和三十年十二月、蜆塚遺跡の発掘調査が行われている(昭和三十三年八月まで)。昭和三十四年には遺跡が国の史跡に指定され、遺構保存施設がつくられ見学のための施設が整備された。翌年には出土品収蔵庫が、昭和三十九年にはそれに隣接して専用の陳列館が完成している。これより先、昭和三十二年一月、浜松城再建期成同盟会が設立され募金活動が始められている。その募金を基に浜松城は昭和三十三年四月に完成し、ここに市立郷土博物館が設置されていた。こうして、蜆塚に出来た出土品収蔵庫と陳列館の二つは浜松城の市立郷土博物館の蜆塚分館とされた。
【浜松市伊場遺跡資料館】
太平洋戦争の末期、名古屋鉄道局浜松工機部付近はアメリカ艦隊の激しい艦砲射撃にさらされたが、その砲弾の炸裂穴から伊場遺跡が発見されたのは昭和二十四年のことである。國學院大學の調査隊によって発掘調査が行われ、昭和二十九年に静岡県指定史跡とされたが、東海道線高架化事業に伴って結局指定は解除となる。その後、遺跡保存地区の整備と資料館の建設が進められ、昭和五十年七月に浜松市伊場遺跡資料館として完成、市立郷土博物館の分館となった。
一方、高度経済成長に伴う急激な社会状況の変化は、人々の日常生活の変化をもたらし、生活に密着した道具(生活用品=民具、民俗資料と呼ばれる)の散逸、消滅をもたらした。こうした状況下にあった浜松市では、以上の流れとは別に、歴史資料としての民具の収集と民俗資料館の設置の方針を決め、昭和四十八年四月から民俗資料の収集業務を開始した。
【浜松市博物館】
このような複層した動きの中から総合博物館設置の方針が打ち出され、浜松市博物館基本構想がまとめられたのは昭和五十一年五月のことである。翌五十二年六月に起工式、常設展示基本計画もまとまり、工事が五十四年二月に完了して四月に落成式挙行というのが開館までの経過である。浜松市博物館の完成によって、浜松城内の本館は博物館とは切り離された。伊場遺跡資料館はそのまま分館として存続、蜆塚分館は改装され別館体験実習室となった。
完成した博物館内の展示について触れておく。先に記した館のパンフレットを見ると「展示の基調」として次のように記されている。
常設展示は浜松という地域社会の歴史的な発展が理解できるように、実物資料を中心に、パネル、模型などを用いて、原始から近代まで、時代をおって、わかりやすく配列解説した。そこでは単に考古資料、文献資料、民俗資料と区別することなく、それぞれに有機的な関連を持たせ、展示が物本位におちいることのないように心がけ、歴史の流れ、人々の生活および人々の考え方などを、目にみえる形で表現してある。
展示テーマは、原始、古代、中世、近世、近代の五つに分けられ、さらにそれぞれが細分されている。収蔵資料は、大きく考古資料、民俗資料、文献資料に分けられるが、そのほかにも市指定文化財工芸品の鰐口(わにぐち)から、二橋志乃製作の浜松張子など様々な資料が収蔵されている。
昭和五十四年の開館以来、浜松市博物館は先に引用した基本理念(性格)に基づき、これまで着実な活動を続けてきたが、平成十七年七月の広域合併により旧市町村の資料館を所管することとなった。このことにより、施設は大きく再編を迫られ平成二十一年現在もなおその途上にあると言える。