浜松市児童会館がその役目を終え、浜松科学館にバトンタッチするために閉館となったのは昭和六十一年三月である。この建物の歴史、また、役割の変遷については『浜松市史』四(第二章第九節)および本書の第二章(第九節第七項)において取り上げてある。
【浜松科学館】
図3-67 浜松科学館パンフレット
同館の閉館記念式典が行われたのは三月二十一日。ステージで、同会館音楽隊合唱団と参加者ら約二百人が同会館への思いを込めながら浜松市歌を合唱した。また、栗原勝市長らが子供たちの触れ合いの場、集いの場として延べ二百五十万人が利用してきた同会館の思い出を語った。浜松市児童会館音楽隊は、社会教育課に移管されて浜松市児童音楽隊としてこれまで通りの活動が続けられることとなった。
浜松科学館の開館は同じ六十一年五月一日のことである。この日、落成・開館記念式典が行われ、浜松市名誉市民の髙栁健次郎ほかが参列している。開館を予告する『広報はままつ』(昭和六十一年四月二十日号)は、この施設を「子供たちの科学する心を養い、創造性豊かな子供の育成や親子のふれあいの場となる浜松科学館」と紹介。また、開館を伝える『静岡新聞』の記事(五月一日付)では「いわば科学とメカの殿堂」、子供たちにとっては「科学のおもちゃ箱」であるとしている。同館は開館した年の十二月、中部建築賞協議会による第十八回中部建築賞を受賞している。
なお、施設には千七百四十二平方メートルの自然観察園が設けられており、浜松ロータリークラブほかによる記念植樹がしばしば行われていて、平成元年に浜松市はこの施設を中心として、都市景観賞を受賞している。
【浜松市天文台】
図3-68 浜松市天文台リーフレット
少しさかのぼることになるが、科学関連の施設として福島町に建設された浜松市天文台設立のいきさつと完成後の活動の様子を知る上に、最もまとまった資料としては『浜松市天文台25年史』(平成十九年三月刊)がある。これによれば浜松市に天文台設立の動きの見え始めるのは昭和五十年代の初めである。もともと浜松地方は、池谷彗星の発見者をはじめアマチュア天文家が多く、市内には天文愛好家のグループが二つあった。浜松宇宙と星の会(昭和三十四年創立の浜松天文同好会を昭和四十一年に改称)と浜松スペースハンタークラブ(昭和四十五年発足)の二つである。後者からは昭和五十二年十月、市および教育委員会に対して「市民天文台及びプラネタリウム建設要望書」が提出されており、また、その頃両者により署名活動が行われ、市議会議長に宛てて「市民天文台の設置方について要望」なるものが提出されている。新たに建設される五島公民館に、天文台を付設する案が市議会に提出され承認されたのは昭和五十五年九月。場所の選定の条件としては、夜間の照明が少なく地平線が見えることが望ましいとされていた。翌年業者が決まって着工、五島公民館と天文台の開館合同式典が行われたのは昭和五十七年四月二十日であった。この間に、天文台の運営を委託されることとなった浜松天文協会が組織されて会則が作られ、昭和五十六年四月に発足している。会のメンバーは前述の浜松宇宙と星の会と浜松スペースハンタークラブの会員が中心であった。地域公民館と同じ建物に天文台が造られ、一般に利用されるというスタイルは全国的にも珍しいものであった。以後、同施設では天文台の一般公開のほか、移動天文教室(地区の子供会や学校を対象に、夜間望遠鏡を持って、各地へ出張して観望会を行う)、親子天文教室、望遠鏡操作講習会、天文講座、天文講演会などを企画し活動を続けている。