[前原銅鐸の発見]

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【前原銅鐸】

図3-70 前原銅鐸

 ここで、当時期の考古学上の一つの成果として、前原銅鐸の発見を取り上げておきたい。
『浜松市博物館館報―Ⅰ―』(平成元年二月二十八日刊)に掲載の報告書「浜松市都田町前原Ⅷ遺跡 前原銅鐸の発掘」によれば、前原銅鐸は昭和六十二年十二月、都田町南部の浜松地域テクノポリス開発予定地内に存在する遺跡群の緊急発掘調査の一環である前原Ⅷ遺跡発掘調査作業中に発見されている。前原Ⅷ遺跡の発掘調査は、文化財保護法等に基づいて開発工事着手前に行われていたものである。
 発掘は昭和六十二年十二月二十四日、住居址や土壙(どこう)(土中に作られた墓穴)を検出するため遺構検出面を精査中の作業員が、地面に直線状に現れた「銅線のようなもの」を発見したのが発端となった。調査員がその周辺を若干掘り下げて精査した結果、見つかったのは銅鐸の鰭(ひれ)の部分であることが分かり、さらに三遠式銅鐸がその両端の鰭を上下として横置きに埋納された遺構と判断された。発掘は翌日から始められ埋納穴内の土は二センチメートルごとに掘り進め、分析のため全て採集するなど慎重に進められた。作業の様子は翌々日には専門家のほか、県内および各地の研究者、報道関係者や地元の人々にも公開されたが、銅鐸の発掘作業が公開されたのは極めて異例のことであった。発掘は翌昭和六十三年三月をもって終了した。発掘された銅鐸は高さ六十七・三センチメートル、幅三十五・七センチメートルと大型のもので、前述のように三遠式銅鐸と呼ばれ旧国名の三河・遠江から集中的に出土する銅鐸に共通する特徴を持っている(三遠式に対して、近畿地方において出土し、共通の特徴を持つものを近畿式銅鐸という)。前原Ⅷ遺跡での銅鐸発見の意義は前記報告書によれば次の二点にある。一つは市内では発掘調査による二例目の発見であり、初めての完形品の発掘であったこと(他の一例としては、旧国鉄の浜松工場の敷地内の弥生時代の遺跡から、近畿式銅鐸の鰭の耳の部分が発見されている)。もう一つは三遠式銅鐸の埋納状態が確認されたのは全国で初めてであるという点であった。同報告書では「前原銅鐸は、一般的な銅鐸の埋納のありかたを示す基準資料となるかもしれない。」としている。
 
【向坂鋼二】
 さて、この前原銅鐸の発掘を中心的に行ったのは浜松市博物館で、当時の館長は向坂鋼二であった。浜松市の職員として、また、考古学の専門家として、彼が静岡県と浜松市に残した多大な業績について触れておきたい。
 向坂は、昭和八年、現在の焼津市に生まれ、静岡県立藤枝高等学校(現藤枝東高等学校)、静岡大学文理学部人文科を経て、昭和三十一年明治大学文学部史学地理学科に編入し考古学を専攻(後藤守一教授の指導を受ける)。昭和三十三年同大学を卒業後、浜松市教育委員会に採用され、社会教育課に学芸員として配属されて、浜松市立郷土博物館に勤務したのが浜松市職員としての出発点である。以後、郷土博物館長(昭和四十六年)、浜松市博物館館長補佐(昭和五十四年)を経て、同館館長に就任(昭和五十六年)。平成六年に定年退職するまで、一貫して博物館関係の業務に携わってきた。
 この間、向坂が静岡県内で手掛けた様々な発掘、調査は膨大な数であるが、浜松市職員として携わった主なものとしては、蜆塚遺跡の発掘と伊場遺跡の発掘があり、それぞれの調査報告書を中心となってまとめている(『浜松市史』四 第三章第九節第七項参照)。前述の前原銅鐸の発見当時には、博物館長として中心となって発掘に当たった。
 
【『静岡県史』】
 向坂の著作については、論文・報告書のほか、県下の幾つかの市町村史の執筆など、これもまた膨大な数に上るが、特に大きな実績としては、『静岡県史』(静岡県発行)と『浜松市史』(浜松市役所発行)での仕事がある。前者については、『静岡県史』資料編1 考古一(平成二年三月刊)の編集責任者専門委員であり、『静岡県史』通史編1 原始・古代(平成六年三月刊)の執筆者の一人である。後者については、『浜松市史』一(昭和四十三年三月刊)の原始編全てと古代編の一部の執筆を担当した。
 なお、向坂は平成五年、長年にわたる考古学研究が認められて、静岡県教育委員会から静岡県文化奨励賞を授与され、平成十七年にも静岡県教育委員会表彰を受けた。