【新政会 議長一年交代】
自民党と保守系議員による松和会は昭和三十九年に結成以来、議会の与党としてリーダーシップをとってきたが、昭和五十四年の市長選挙の候補擁立をめぐって内部対立が深刻化した。しかし、与党として大同団結していくことを確認、混乱のイメージが強かった松和会の名称を新政会と変更して存続していくことになった。昭和五十五年になって新政会では議長・副議長の人選をめぐって対立が深刻となった。協議の結果、議長候補は四期当選以上、副議長候補は三期当選以上ということでまとまったが、再選の可否で意見が割れていた。新政会の一部議員からは「議長任期が一年というのでは満足な議長活動もできない。任期を二年にし、人物本位で選ぶべきだ。これでは市民からタライ回しと批判されても仕方がない。」とか、野党からも「一年交代のタライ回しはやめるべきだ」との意見が強く、新政会での意見調整が求められた。「今後一年間かけ、任期二年に向けて前向きに研究する」と意見を統一したものの、この年は一年交代とすることで決着、以後、一年交代が慣例化した。
【議会改革案】
新政会が分裂の危機に陥ったのは、平成五年六月に自民党が分裂し、羽田孜や小沢一郎らが新生党を結成した時であった。新政会で新生党に入党した熊谷弘系の議員は十六名、自民党の柳澤伯夫系が六人、同じく塩谷立系が五人で、熊谷系が新政会の役員を占めるようになった。新生党主導の議会運営に反発を強めた四名の自民党市議は平成六年一月十三日になって新政会から離脱、成和会を結成した。これ以後、市議会の常任・特別委員会の正副委員長のポストの割り振りで混乱が続いた。平成六年五月になって正副議長選挙が迫り、新政会の分裂によって緊迫した情勢になった。新政会(新生党十一人、新生党系無所属五人、自民党七人)は二十三人、これに対し公明党六人、市民クラブ六人、社会党五人、成和会四人の四会派は二十一人、それに共産党議員が三人であった。もし、共産党が四会派と手を組めば二十四人となり、共産党がキャスティングボートを握ることになった。この時、共産党は正副議長の党籍離脱、各会派の代表質問だけでなく議員の一般質問も認める、質問時間の制限を無くし良識の範囲内とする、委員会審議を公開し一般市民の傍聴を認めるなど議会運営改善案の七項目を認めれば四会派と共同歩調をとると表明した。注目された議長選では共産党を含む五会派の推す公明党の松野幹男が、副議長選では市民クラブの新見信明が、新政会の推す候補をそれぞれ一票差で破って初当選を果たした。市議会では昭和三十九年の会派制導入以来最大会派の松和会(新政会の前身)と新政会が正副議長を独占してきたが、初めて新政会以外から正副議長が当選した。新聞はこれにより議会運営で影響が出ること、また、議会の改革が行われることになると報じた。ただ、正副議長の党籍離脱は行われなかったものの、議会改革案を協議することが決まった。この協議は会派の考えが一致せず難航を重ねたが、委員会の市民傍聴が実施されることが決まり、平成七年五月議会から実施されることになった。また、平成七年九月議会より代表質問だけでなく、議員の一般質問を認めることになった。このほか、これより前の平成七年一月五日号の「市議会だより」より発言者の会派名(平成十一年十月二十日号から氏名も掲載)のみ載せることになった。平成七年四月の市議選では新政会の議員が議会の過半数を制し、同年五月の正副議長選では新政会の伊藤善太郎が議長に、同じく新政会の小野秀彦が副議長に就任、これ以降正副議長の任期は申し合わせどおり一年となり、これが長く続いている。
【浜松市議会の定数】
浜松市議会の定数は昭和三十八年に四十八人となって以来変更はなかった。昭和六十年十月の国勢調査により、人口が五十万人を超えたことから、地方自治法により同六十二年の市議選では法定の議員数は前回より四人増えて五十六人になることとなった。しかし、浜松市は条例で四十八人としていたため、法定数との差八名をどうするかで様々な論議がなされた。このような中、浜松商工会議所や浜松青年会議所、浜松経済クラブ、遠州経営者協会などの経済団体は現在の議員四十六人(公選法違反で当選無効の議員二人欠員)でも十分機能しているとし、行政改革の観点から四十六人へ定数削減をするよう申し入れた。しかし、議会側は現状維持が大勢を占め、これといった議論が行われないまま、現状の四十八人で決着したのは選挙が行われる昭和六十二年四月の一カ月前のことであった。その後、行革論議がさらに高まり、定数が四十六人になるのは平成十五年四月に行われた市議選からである。