栗原市政が始まって十九年、平成十年の十一月を過ぎると市政の話題は栗原市長の六選出馬問題に絞られた。栗原は全国六百七十市長の最高峰とも言える全国市長会の会長、また、市長以上に市政を知る人はいないと言われるほどの人物で、これまでテクノポリスやアクトシティなど全国に誇り得る事業を成し遂げ、音楽の街づくりにも貢献してきた。栗原市長が六選出馬を表明したのは平成十年十二月一日の市議会、二十一世紀への橋渡しとして取り組んでいる駅前の区画整理事業や中心市街地の立て直し、国際園芸博や介護保険の準備など継続中の重要プロジェクトの仕上げに取り組みたいとのことであった。これに対して市議会最大会派の新政会はいち早く会派として推薦を決めた。このような中、経済界の一部には同年十月頃から多選反対、人心一新を求める動きが始まり、十二月になって静岡八区選出の民主党の北脇保之衆議院議員の擁立を考えるようになった。特に浜松商工会議所の主なメンバーは北脇支持を鮮明にし、これを受けて栗原市長の後援会の幹部は市長に出馬辞退を進言するまでになった。市内の経済人らでつくる「北脇保之さんを市政に送る会」の代表は平成十一年一月二十一日に北脇氏に出馬を要請、同氏は二十五日に正式に出馬を表明、同日栗原市長は出馬を撤回するに至った。北脇の議員辞職に伴う補欠選挙は自民・民主の激しい戦いで自民党の塩谷立が当選、それから二週間後の四月二十五日の市長選では北脇陣営は共産党を除く政党が相乗り、これに対する共産党推薦の革新候補との一騎討ちとなった。この市長選で北脇は十七万票余を獲得、革新系候補を大差で破ったが、投票率は五十八・二三%と過去最低になった。北脇市長は東大卒業後、自治省に入り、米国での地方政治の理論的な研究や出向自治体での豊富な行政経験があり、民主党の衆議院議員時代は地方分権プロジェクトでの実績を基に、地方分権をライフワークに掲げていた。
図4-3 北脇保之市長