[三遠南信地域との様々な交流]

846 ~ 851 / 1229ページ
 愛知県東部の東三河、静岡県西部の遠州、長野県南部の南信州の三地域は古くから天竜川の水運や塩の道、秋葉街道などを通して各種の交流が盛んであった。昭和二十六年十二月、政府は天竜東三河地域を総合開発特定地域に指定した。『広報はままつ』の創刊号(昭和二十七年九月十五日発行)のトップ記事はこの天竜東三河地域の総合開発計画であった。静岡県の竹山祐太郎知事は愛知県と長野県の知事に呼び掛け、昭和四十三年七月三十一日に三県知事会議を磐田郡佐久間町で開いた。この頃一県単位では総合的な開発が望めなくなってきており、三県の協力態勢の下で地域の開発(特に交通体系の整備と観光開発)を行おうというものであった。この会議で三県知事が合意したことは、静岡県と長野県を結ぶ国道の未開通部分は兵越峠を通すこと、東名高速道路と中央高速道路を結ぶ三遠南信高速道路の建設、国鉄佐久間線の建設、天竜奥三河国定公園の早期指定などであった。静岡・愛知・長野の三県にまたがる天竜奥三河国定公園は三県の努力の結果、昭和四十四年一月十日に指定され、その指定を祝う記念式典に合わせて三県知事会議が同年五月二十日に愛知県の湯谷温泉のホテルで開かれた。ここでは主にこの国定公園の観光開発に関する計画が話し合われた。
 
【三遠南信トライアングル構想】
 昭和五十九年七月二十日、浜松市で開かれた中部経済連合会の静岡地域会員懇談会で三遠南信トライアングル構想の大筋が明らかになった。浜松地域テクノポリスや飯田・伊那地区の精密機器技術集積地と東三河の港湾を結び付けることによって地域の活性化を図ろうというものだった。この三遠南信トライアングル構想は昭和六十年三月になって中部経済連合会が正式に発表し、各方面にその実現を呼び掛けていった。この構想に入る地域は東三河・遠州(掛川市以東を除く)・南信州(諏訪地区や上伊那地区を除く)で、その面積は愛知県をしのぎ、人口は群馬県とほぼ同じの全国二十一位、工業出荷額は五兆円を超え、全国十四位となる(昭和六十年現在)など、全国の上位に相当する潜在力を持っていた。県境を越えた一体的な行政を推進していけばさらに地域の活性化が推進できると考えたのであった。そして、何よりもこの三地域間の交通網、特に三遠南信自動車道を整備して、南北交流を盛んにすることが必須であるとした。これはこの地域の山間部の過疎化を食い止める道でもあった。港のない浜松や飯田のためには三河港の整備も欠かせないものであり、また、三遠南信の山間部には日本有数の民俗芸能が伝承されており、これらの文化財の相互交流や民俗芸能の保存や展示施設の建設も構想に取り入れられていた。
 
【三遠南信サミット シンポジウム】
 平成三・四年度には国土庁、農林水産省、林野庁、通商産業省、建設省の五省庁による三遠南信地域整備計画調査(上伊那地区や東遠地区を含む十四市六十四町村)が行われ、同五年には三遠南信地域整備計画ができ、国として地域整備に本腰を入れ始めた。飯田・浜松・豊橋の三商工会議所は平成三年十二月に三遠南信地域経済開発懇談会を発足させ、地域が連携して様々な活動を開始した。これらの活動が基となって平成六年二月十日に第一回の三遠南信サミット&シンポジウムが浜松市で開催された。このサミットには遠州(西遠地区三市六町、中遠地区二市六町村、北遠地区一市四町村)、東三河(豊橋渥美一市三町、宝飯地区二市四町、新城南北設楽一市八町村)、南信州(飯伊地域一市十七町村)から五十九市町村長と六十三商工会議所会頭・商工会長が参加、三遠南信が二十一世紀に向けてより一層の発展を模索することを目的に、真剣な討論が行われた。シンポジウムやパネルディスカッションでは多くの有識者の講演や提案がなされた。サミットは五十九市町村長が参加する行政サミットと六十三商工会議所会頭・商工会長が参加する経済サミットに分かれて意見交換や提案がなされた。共通して取り上げられたことは三遠南信自動車道や南北交流の促進であった。行政サミットでは地域整備計画の推進や交流ネットワークの形成などが、経済サミットでは三遠南信自動車道の建設促進、地域の経済交流ネットワークの推進などが共同コミュニケとして採択され、三遠南信サミット&シンポジウムの継続開催が決まった。この時は三遠南信芸能祭や三遠南信大物産展、三遠南信パネル展が同時に開催され、多くの人たちが三遠南信の交流を実感した。この三遠南信サミット&シンポジウムは浜松市、豊橋市、飯田市の順で持ち回りとなり、毎年行われ、平成十一年に浜松市が行った時(会場は雄踏町)から名称を三遠南信サミットと変更して今に続いている。
 
【三遠南信自動車道 草木トンネル】
 昭和四十年代から建設が望まれていた三遠南信自動車道は、昭和六十二年の四全総(第四次全国総合開発計画)の高規格幹線道路網計画に位置付けられた。この自動車道は飯田市の中央自動車道を起点に静岡県引佐郡三ヶ日町の東名高速道路に至る延長約百キロメートル、第二東名ともつながる交通の大動脈となるものである。このうち、特に急がれたのは在来の道路で最も不便な所となっている二つの区間の道路建設(トンネル掘削)であった。その一つの矢筈トンネルは長野県下伊那郡の喬木村と上村を結ぶもので平成元年一月に着工、もう一つの草木トンネルは静岡県磐田郡水窪町の草木と池島を結ぶトンネルで昭和六十三年に工事に着手した。三遠南信自動車道のうち初めての開通区間となったのは矢筈トンネルで、平成六年三月二十九日に開通、伊那谷と遠山谷が結ばれた。草木トンネルは平成六年七月十四日に開通、これまで国道の未開通部分であった青崩峠を避けて信州方面に通じる道路であるが、当面は生活道路としての役割が期待された。建設省でもこのトンネルは日常生活から救急医療、産業、文化と広範囲にわたって地域の活性化に寄与すると期待していた。『中日新聞』(平成六年七月十五日付)は三遠南信自動車道草木トンネルの開通の見出しに「3県新時代幕開け」と記した。その後は長い不況が続き、全通には至っていない。

図4-4 三遠南信自動車道草木トンネル

【三遠南信災害時相互応援協定】
 三遠南信サミット&シンポジウムの開催に続いて、平成八年七月には市町村レベル、地域住民レベルでのより一層の交流を行おうと三遠南信地域交流ネットワーク会議が設立された。これらの会議で提案された交流のうちで、盛んに行われたものに教育・文化の交流がある。浜松市美術館、豊橋市美術博物館、飯田市美術博物館ではそれぞれが所蔵している美術・工芸品を貸与するかたちでの美術文化交流展(展覧会など)を行った。浜松市と飯田市との中学生・教員の交流事業は平成五年から始まり、豊橋市と飯田市のスポーツ交流は平成七年から開始され、伝統文化の維承や新たな人材育成による地域の発展を目指した。産業部門では平成六年に開催された「ハイテク浜松'94」に三河や飯田・伊那の企業が参加した。先述のように、この地域は民俗芸能の宝庫といわれていたが、昭和六十二年度には三遠南信の二十三の民俗芸能団体が参加しての民俗芸能フェスティバルが各地で開催された。平成九年三月十六日には浜松市のフォルテホールで三遠南信芸能祭'97が開催され、寺野のひよんどり、大海の放下踊、新野雪まつり、下條歌舞伎、三谷まつりの五つの伝統芸能が披露された。このほか、三遠南信パネル展や物産展も開催された。そのほか数多くの交流事業がなされていったが、注目すべきは災害時に相互に応援しあう協定が結ばれたことであった。協定の名称は三遠南信災害時相互応援協定、これは平成八年七月八日の三遠南信ネットワーク会議の設立総会の後に調印式が行われた。県境を越えて五十九もの自治体が手を結ぶのは全国的にも珍しいことであった。応援内容は被災者の救出と救護、職員の派遣、資機材、物資(食料、飲料水、生活必需品など)の提供、被災者の一時受け入れなどであった。この応援協定は前年の一月に起こった阪神・淡路大震災の教訓から生まれたものである。なお、『広報はままつ』はこの三遠南信についていろいろな角度から取り上げ、今までよく知らなかった市町村の様子や観光地、行事などを広く紹介した。平成十四年一月五日号は浜松・豊橋・飯田の三市広報共同企画で「夢をはぐくむ三遠南信交流」の特集記事を掲載、一層の交流を呼び掛けた。