国際交流

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 外国人が浜松市に視察に来ても受け入れ窓口がなく、市民が外国に視察に出掛けるのに必要な情報や資料が市内では入手が困難という状況が昭和五十年代の半ばまで続いていた。これは二十年に及んだ平山市政では、市の方針として国内の多くの都市が行っていた国際交流、特に外国との姉妹都市提携を行わなかったことがその一つの理由といわれている。当時の姉妹都市提携は市の幹部級などほんの一部の人たちの交流に過ぎず、実りのあるものにはなっていないと考えていたのである。
 
【浜松国際交流協会】
 栗原市政が誕生したのは昭和五十四年、この頃ホンダ、スズキ、ヤマハ、カワイなど浜松の企業は海外への事業の展開を積極的に進め、それに伴い外国人が多数浜松に来るようになっていた。このような折、昭和五十五年に浜松青年会議所が市民にアンケート調査をしたところ、市民の多くが国際交流に高い関心を示していることが分かり、具体的にどのように対処すべきかの検討に入った。一方、市はテクノポリスの展開とともに浜松を真の国際都市として位置付け、世界の特定の都市との交流は避けつつも、国際都市への発展を指向することが重要と考えるようになった。こうして浜松市は浜松商工会議所と負担金を出し合い、民間主導の浜松国際交流協会の設立に動いた。そして、昭和五十七年十二月十七日に浜松国際交流協会が発足した。同協会の事業は外国の産業・歴史・風俗・文化の紹介、産業・文化資料の収集と提供、海外からの来訪者の受け入れやホームステイの紹介、海外渡航者、帰国者の相談などであった。発足後は外国人のための英文マップの作成や国際資料の充実に努めた。浜松国際交流協会の創立一周年を記念して国際交流フェアが始まったのは昭和五十九年三月十日であった。外国人による日本語でのスピーチやダンス、ゲーム、記念シンポジウムなど多彩な催しが行われ、参加者は約一万人に及んだ。昭和六十年三月の国際交流フェアは三十八の団体の協力を得て開かれるなど次第に盛り上がりを見せ、以後今日まで続いている。なお、浜松国際交流協会は推進母体の強化のため平成三年十月に財団法人化された。当時の基本財産は三億二千八百万円(浜松市一億五千万円、静岡県五千万円、民間一億二千八百万円)であった。
 
【ワルシャワ市 音楽文化友好交流協定】
 音楽の街づくりに努めた栗原市長の下で、音楽文化に関する友好交流協定が世界の有名都市との間で締結された。これはアクトシティ(大ホール・中ホール)開館後の音楽関係の催し物の充実を図ることも目的の一つであった。ポーランドのワルシャワ市と浜松市との間で音楽文化友好交流協定が結ばれたのは平成二年十月二十二日、この一年後の平成三年十一月には浜松市民会館で第一回浜松国際ピアノコンクールが開催されている。また、平成六年十月七日のアクトシティ浜松の落成式の後、アクトシティのショパンの丘に設置されたショパン銅像(ワルシャワ市の公園にある像の複製)の除幕式が行われた。また、アクトシティのオープン記念行事のショパンフェスティバルでは、大ポーランド展が行われたり、国立のバレエ団やオーケストラが参加した。その後も浜松とワルシャワ市の音楽文化友好の交流は続き、少年少女の合唱団や高校生、市民グループなどがワルシャワ市を訪れた。ショパンフェスティバルやショパンの丘コンサートなどは広く市民に親しまれている。

図4-9 ショパン像の前で開催されたショパンの丘ピアノコンサート

【サンレモ市 プラハ国立劇場 ロチェスター市 イーストマン音楽学校】
 平成三年七月十六日にはサンレモ音楽祭で有名なイタリアのサンレモ市と音楽文化友好交流協定が締結され、様々な交流がなされた。しかし、平成九年を最後に交流はストップし、サンレモ市との音楽交流は終わった。平成七年十月十七日にはチェコ共和国のプラハ国立劇場とアクトシティ浜松が音楽文化友好交流協定を締結、これは劇場同士の協定という珍しいものであった。平成七年一月二十八日・二十九日の両日、この劇場のオペラ、ドン・ジョバンニとフィガロの結婚がアクトシティ浜松の大ホールで上演された。平成八年十月二十五日にはアメリカ合衆国のロチェスター市と音楽文化友好交流協定を締結、ここは世界的に有名な管楽器オーケストラ「イーストマン・ウィンド・アンサンブル」で有名、平成十年からイーストマン音楽学校のセミナーが開催された。平成九年三月からはパン・パシフィックバンドフェスティバル(平成十二年からは浜松国際吹奏楽大会)が始まり、音楽の国際化が一段と進んだ。北脇市政になってからは、世界都市・浜松の実現に向けて国際大会による世界への情報発信ということで、浜松国際ピアノコンクールを中心事業と位置付け、世界へアピールをし、〝HAMAMATSU〟の知名度の向上を図った。
 
【国際交流室 浜松市世界都市化ビジョン】
 ところで、浜松の国際交流事業は昭和五十七年十二月に設立された浜松国際交流協会が中心となって行い、浜松市は平成二年度までは企画課の一つの仕事として国際交流関係の事業をしていた。平成三年四月からは企画部の中に国際交流室を設けて市として一層の推進を図った。平成十一年四月(五月から北脇市政が開始)からはこれを国際室とした。平成十二年になるとブラジル人が一万人を突破したことを踏まえ、浜松市は外国人の声を市政に反映させるべく同年六月に外国人市民会議を設置し、外国人市民が暮らしやすい街をつくるための市への提言、外国人市民と日本人市民が共生する上での問題点と解決策などが検討された。この場では日本語教育の充実やごみの出し方など、様々な問題が提起された。浜松市は「外国人市民との共生」を目指し、特にブラジル人市民からの要望が多かった日本語教育や母国語での教育、母国語での医療・薬事情報の提供、住居のあっせん、子どもの学校への受け入れなど様々な問題の解決に努めていった。ただ、日々の生活の中で生活習慣の違いや言葉が通じないことからくるトラブル(ごみ出し、騒音、路上駐車など生活のルールを守らない等)が多数発生し、共生の難しさが見られることがたびたび起こった。また、問題は地方自治体だけでは解決できないことが多数あり、これらの解決のために後述の外国人集住都市会議が開かれることになる。このような中、平成十二年四月から浜松市は国際化の指針となる「浜松市世界都市化ビジョン」の策定に取りかかった。この策定有識者懇談会の特色は日本人の専門家十人に加え、ブラジル、アメリカ、ペルー、中国など外国人が十人も入っていたことである。浜松市の世界都市化ビジョンは北脇市政三年目の平成十三年四月から開始され、外国人市民と日本人市民が真に共生できる地域社会づくり、海外諸都市やその市民との積極的な交流・協力・連携、浜松が有する特性とグローバルな都市活動を世界に向けて発信することを明確に打ち出した。そして、具体的に事業としては日本人市民と外国人市民が自主的に話し合う地域共生会議の開催、平成十二年度から開催している外国人市民会議の充実、外国人市民が安心して暮らせるまちづくりの推進、市の窓口での外国語による対応、外国人相談事業の充実などが実施されていった。

図4-10 南米出身者へのアンケート調査 出典:『広報はままつ』平成15年6月20日号

【外国人集住都市会議】
 ブラジル人の急増を受けて北脇市長が取り組んだものに外国人集住都市会議がある。これは南米日系人を中心とする外国人住民が多数居住する都市がそれぞれ抱える問題を話し合い、国、県、関係機関等へ提言していこうというものであった。第一回は浜松国際シンポジウムとして平成十三年十月十九日・二十日の両日アクトシティ浜松で浜松市のほか十二の市町(磐田市・湖西市・豊橋市・豊田市・四日市市・鈴鹿市・大垣市・可児市・美濃加茂市・太田市・大泉町・飯田市)が参加して開催され、初日は外国人集住都市公開首長会議が開催された。ここでは各市町の首長が教育や医療、社会保障など地域で起こっている様々な課題や既に実施している事柄などを報告した。二日目には「地域共生の課題克服に向けて」と題するパネルディスカッションが行われ、最後に「地域共生」についての浜松宣言と提言が採択された。これは国会や省庁、関係各機関へ提出された。次は浜松宣言の全文である。
 
【浜松宣言】
 
      「地域共生」についての浜松宣言
   ニューカマーと呼ばれる南米日系人を中心とする外国人住民が多数居住している私たち13都市は、日本人住民と外国人住民との地域共生を強く願うとともに、地域で顕在化しつつある様々な課題の解決に積極的に取り組むことを目的として、この外国人集住都市会議を設立した。
   グローバリゼーションや少子高齢化が進展するなかで、今後我が国の多くの都市においても、私たちの都市と同様に、地域共生が重要な課題になろうと認識している。
   定住化が進む外国人住民は、同じ地域で共に生活し、地域経済を支える大きな力となっているとともに、多様な文化の共存がもたらす新しい地域文化やまちづくりの重要なパートナーであるとの認識に立ち、すべての住民の総意と協力の基に、安全で快適な地域社会を築く地域共生のためのルールやシステムを確立していかなければならない。
   私たち13都市は、今後とも連携を密にして、日本人住民と外国人住民が、互いの文化や価値観に対する理解と尊重を深めるなかで、健全な都市生活に欠かせない権利の尊重と義務の遂行を基本とした真の共生社会の形成を、すべての住民の参加と協働により進めていく。
   以上、13都市の総意に基づきここに宣言する。
 
 提言は教育、社会保障、外国人登録等諸手続きの三つがあり、これらのうちいくつかの提言(外国人登録手続など)が後に実現されるようになる。平成十四年にはその名称を外国人集住都市会議とし、首都東京に十四都市が参加して討議を重ね、十四都市共同アピールを行った。平成十五年・十六年には豊田市で開催した。これらは国内のわずかな都市の会議ではあったが、南米系外国人の様々な課題解決のために腰が重かった国に要望や建設的な提言をしていったことは注目に値し、また、浜松市がこの運動の先頭を切ったことは高く評価したい。なお、この後、この会議に参加する都市は第一回の数の二倍にもなり、その影響力は格段に大きくなった。