[中心市街地の活性化]

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【浜松市中心市街地活性化計画】
 浜松の中心部全体の歩行者の通行量は昭和四十二年から同四十五年ぐらいまでが最も多く、それ以降は特定のデパートや大型店付近を除いて減少傾向となった。「買い物は車でが定着」となったのは昭和四十八年頃で、これ以降市内各所に駐車場がつくられることになる。その後、昭和五十年代に入ると市内中心部の人口減少と郊外への大型店の相次ぐ出店などにより、中心市街地(中心商業地)の衰退が始まった。昭和六十年代に駅前への大型店の進出により若干の増加が見られたが、以前の賑わいは戻らなかった。これ以降、たびたび商店街の診断や調査が行われ、多くの提言がなされるようになり、提言を生かした街づくりも行われた。平成七年七月の西武百貨店浜松店の閉店表明(実際の閉店は平成九年十二月)は浜松の中心市街地の多くの人々に衝撃を与えた。これを受けて、平成七年十月に浜松市、浜松商工会議所、自治会、学識経験者などからなる浜松市中心市街地街づくり推進協議会が設立され、市民の意見を取り入れて都心再生に向けての提案がなされた。その例としては、中心市街地に文化の拠点となる施設や楽しみの拠点(シネマコンプレックスなど)、飲食ゾーンなどをつくることやイベントの開催、鍛冶町通りのモール化、新交通システムの導入などがあった。これらを基に浜松市は平成十一年三月に浜松市中心市街地活性化計画を策定、鍛冶町のメインストリートづくり、東地区の新拠点づくり、来街・回遊システムづくりなどで活性化を図った。当初は郊外に建設を予定していた静岡文化芸術大学を平成十二年四月に中心部の東地区に開学させたのも中心市街地の活性化と無縁ではない。ただ、平成十三年十一月の老舗百貨店・松菱の倒産は市民を驚かせ、改めて中心市街地の活性化がいかに難しいかを教えた。これ以降、官民が力を合わせて都心のにぎわいの創出や活性化のために多くの事業を行っているが、まだ成果を見い出せないでいる。