【高丘葵土地区画整理事業】
高丘葵土地区画整理事業は昭和四十八年三月に事業主体を浜松市と決定、市は同年九月に土地区画整理の計画案を地元へ説明する会を開催した。しかし、これに反対する人たちがかなりの人数に上った。同四十九年八月には第二次案を説明したが、これも拒否する人が多かった。同五十年六月には区域(三百四十二・九ヘクタール)などを都市計画決定し、同五十一年八月には第三次案の地元説明会を開催した。これに対して計画に賛成する住民と反対する住民が対立、会場は大混乱に陥った。反対派の主張は、この土地区画整理は流通業務センター建設のためのもので、産業優先である、減歩率が高い〔十七・九%(当初は二十四%)、いずれも平均〕、道路の幅員が広過ぎるなどというものであった。一方、賛成派の住民は同五十一年十二月に土地区画整理事業推進協議会を結成して早期実現を市に要望、市は最終案をまとめて県の都市計画審議会に諮問、同五十二年三月に承認された。これが同五十三年六月に県知事によって認可され、正式に事業がスタートした。三百四十二・九ヘクタールという面積は県下の土地区画整理事業では最大で、地区は住居、工業、準工業、近隣商業の各地域に分け、道路や公園、排水路などの整備が行われることになった。道路については主要幹線の高丘1号線(幅員二十八メートル)は歩道の幅員を拡げて車線数を少なくして通過交通量を減らし、住宅地の道路も通過車両が入り込まなくするなど、居住環境の優れた市街地とした。また、工業地域、準工業地域も計画的に配置し、生産機能の向上を図った。さらに、多くの公園(二十カ所)やそこでの緑化、モニュメントやサイン計画などの導入により美しい街に生まれ変わっていった。土地区画整理事業では減歩や換地などで利害関係が複雑に絡み合い、また、理想と現実、街づくりへの考え方の相違など多くの問題が生じるもので、多くの住民の理解と協力なくしては成し遂げられない。この高丘葵土地区画整理事業は事業開始から二十五年、幾多の試練を乗り越え、事業の完工式典が行われたのは平成十年十月二十四日であった。