【佐鳴湖西岸土地区画整理事業 大平台】
佐鳴湖東岸の区画整理事業が行われ、新しい佐鳴台の町が誕生すると、佐鳴湖西岸でも計画人口一万一千人の大規模な土地区画整理事業を実施する方向で関係者の準備が進んでいた。昭和六十一年八月二十八日に志都呂町の浜松西農協本所で浜松市佐鳴湖西岸土地区画整理組合の設立総会が開催された。佐鳴湖西岸の入野町を中心に、神ケ谷町、西鴨江町に広がる約百五十六ヘクタールが区画整理の対象となり、緑豊かな居住環境を目指した。佐鳴湖東岸(後の佐鳴台)土地区画整理事業では工事中に二年連続で大水害が発生したことから、ここでの排水問題をどうするかで事業計画が行き詰まった段階もあったが、東岸での教訓を生かして新たに放水路を掘削したり防災調整池を設置することとなり、区画整理事業の組合が設立されることになった。対象地域は農地や山林がほとんどで、道路などの公共施設に乏しくスプロール化(都市などが無計画に広がること)が心配されていた。野鳥の生息地としても貴重な佐鳴湖の西岸斜面の緑地を保存し、地区内には多くの公園をつくり、道路にも十分すぎるほどの歩道をつくるなど、公共用地の面積は全体の四十二・四%にも上ったため、減歩率は四十三・六%にもなった。住宅は、佐鳴湖に面する東側を低層住宅地に、西側を中低層住宅地に、西端を集合住宅用地とした。昭和六十三年五月に建設省のふるさとの顔づくりモデル土地区画整理事業に指定され、具体的なプランが策定された。それによれば、街づくりのテーマは「フォレストパーク佐鳴湖の森」で、緑豊かなハイセンスの街を目指した。佐鳴湖からの新川放水路は新川の治水と佐鳴湖の浄化のため、また宅地開発による水害防止などのために県が建設、これにより土地区画整理事業での水害の心配は消えた。ここに架かる大平大橋の開通式は平成四年十一月八日、景観形成のシンボルとなるアーチ型の橋であった。住宅の建設は平成六年度頃から始まったが、この頃はバブル経済の崩壊が始まり、高層の集合住宅地の土地が売れなくなり、苦境に立たされた。平成七年になってこの土地が新しい県立大学(今の静岡文化芸術大学)の建設候補地にリストアップされたが、最終的には大学は市内中心部の東地区に決まった。代わりに県立の農業経営高等学校と浜松城南高等学校を統合・合併して出来る新しい高校の誘致に乗り出した。また、平成十年には低層住宅地区の建ペい率を二十%から四十%に緩和することが市の都市計画審議会で承認された。これまで平屋で四十坪の家を建てたいとき、二百坪(約六百六十平方メートル)の土地が必要だったが、これからは半分の百坪の土地で建てられることになり、これで土地がよく売れるようになった。平成十年十一月一日にこの区画整理地区の町名は大平台(おおひらだい)となり、一丁目から四丁目に区分された。平成十年十一月末の世帯数は千百六十八世帯、人口は二千六百四十一人であった。平成十二年になって新設の高校の建設用地が佐鳴湖西岸に決まり、また、佐鳴湖西岸に予定されている小学校の用地の先行取得も決まった。これらにより多くの住宅が建ち始め、幼稚園(さなる幼稚園、平成十一年四月開園)、保育園(わかくさ会大平台わかくさ保育園、平成十五年四月開園)も出来た。平成十七年四月には新設では市内最後の小学校となる大平台小学校が開校、また、おしゃれな店舗も続々と開店した。平成十七年七月、佐鳴湖西岸土地区画整理組合は魅力あるまちづくりに功績があったとし、国土交通大臣から表彰を受けた。同組合は区画整理事業を終え、平成十七年八月十八日に組合の解散大会を開いた。