平成七年四月一日に改正合併特例法が施行され、自主的な市町村合併の推進や住民が合併協議会設置の直接請求をすることが出来ることなどが決まり、全国各地で平成の大合併が始まることになった。平成八年の県議会で石川知事は地方分権推進のために市町村の合併を支援していくことを表明した。しかし、県内の市町村では具体的な動きはなく、平成九年の浜松市議会でも栗原市長は市が率先して合併を進める考えはないと答弁していた。平成十二年四月に地方分権一括法(合併特例法の改正を含む)が施行されると、合併特例債の創設を中心とした行財政面での支援や人口要件の引き下げなどが行われたことにより全国の自治体で合併が行われることになった。国が市町村合併を推進しようとしたのは、地方分権の推進、広域的な行政需要の増大、厳しい財政状況に対応する行政改革などに備えることなどであった。平成十一年五月に就任した北脇市長は平成十三年十二月の段階でも一般論としては合併は進めるべきで、政令指定都市を目指すが、当面は足元を固めていくと表明していた。浜松の経済界では、このころ静岡・清水の合併機運が高まっているのに浜松は遅れているとの認識が高まっていた。そして、平成十四年二月に静岡経済同友会浜松協議会は政令指定都市実現に向けた浜名湖市構想を提言した。実はこれより十年も前の平成四年三月下旬、浜松商工会議所青年部は「政令指定都市をめざして―二十一世紀へ向けての都市づくり」の提言をまとめて各方面に呼び掛けていたのである。ここには広域行政のメリットを生かす周辺市町村との合併や大学誘致、そして政令指定都市実現のプログラムまで提示されていた。
【政令指定都市実現に向けて 環浜名湖市政令指定都市構想 天竜川・浜名湖地域合併協議会】
浜松市が政令指定都市実現に向けて企画課に広域行政推進室、行政経営課に地方分権推進室を設置したのは平成十四年四月のことであった。国は市町村合併促進のため、平成十七年三月末までに合併した場合に限り多くの優遇支援策を用意し、政令指定都市になるための人口も七十万人以上なら指定を受けられることにしたのである。これを受けて浜松市は政令指定都市実現に動き出したのであった。平成十四年七月になって浜松市は周辺の九市町(浜北市、湖西市、天竜市、舞阪町、新居町、雄踏町、細江町、引佐町、三ヶ日町)に対して政令指定都市の実現を目指した研究会への参加を要請した。平成十二年の国勢調査では浜松市と九市町の人口を合わせると八十二万九千七百人余を数え、政令指定都市になる条件を満たしていた。浜松市が目指す都市ビジョンは「環境と共生するクラスター(ブドウの房)型政令指定都市・環浜名湖市」であった。浜松市が研究会への参加を呼び掛けたところ、多くの首長はおおむね前向きな態度を示したが、天竜市の中谷市長は北遠の四町村(佐久間町、水窪町、春野町、龍山村)と同一歩調を取ると表明、湖西市や新居町はやや慎重な姿勢を見せた。環浜名湖市政令指定都市構想研究会には図4―12のように十四市町村が参加、このほかにオブザーバー参加として磐南五市町村(磐田市、福田町、竜洋町、豊田町、豊岡村)を代表して磐田市と竜洋町が加わった。第一回の会合は平成十四年十月七日に浜松市で開催された。この会では政令指定都市の構想、会の活動計画、合併や政令指定都市のメリットやデメリットなどが話し合われた。第四回の研究会は初めて浜北市で開催され、浜北市側は政令指定都市の実現にはじっくりとした検討の時間が必要と述べた。平成十五年二月十三日に静岡経済同友会浜松協議会は経済サミットを開催、この中で五市町の首長らが座談会を行ったが、山本湖西市長は、湖西市は「合併より単独で努力できる余地があるのではないかと思う。合併で湖西の個性がなくなってしまっては困る。」と発言、注目を浴びた。同年五月十三日、浜松市は六月に発足する合併準備会への参加を周辺十三市町村に呼び掛けた。これに対し注目されていた湖西市は保留、浜名三町(新居町、雄踏町、舞阪町)も即答を避けた。同年五月三十日、湖西市の山本市長は環浜名湖政令指定都市構想からの離脱を表明した。湖西市は健全財政に自信を持っていたからだ。平成十四年当時、湖西市の人口は約四万四千人、この少ない人口にもかかわらず工業製品出荷額は約一兆二千億円、この金額は県下では浜松市、磐田市、富士市に次いで四番目、これに対し浜松市は人口約五十九万人で工業製品出荷額は約一兆九千億円であった。湖西市にとってみれば、合併すれば税金が外に逃げていくことになり、市民の大半が合併を支持していないことが不参加の表明につながった。これを受けて同年六月十日に湖西市を除く三市九町一村で第一回合併協議会設置準備会を開催した。湖西市の離脱により合併協議会の名称は天竜川・浜名湖地域合併協議会となった。設置準備会で様々な問題を話し合い、また、民間でも合併に向けたいろいろな取り組みや活動があった。同年八月十三日に協議会参加を表明していなかった舞阪町が参加を表明したが、八月二十日に新居町の片山町長は天竜川・浜名湖地域合併協議会への不参加を表明した。片山町長は湖西市との早期合併は否定したものの、広域行政や生活圏での湖西市との結び付きを強調していた。これにより、合併は十二市町村での枠組みが決まった。合併協議会設置準備会は四回で終わり、天竜川・浜名湖地域合併協議会の設置届が平成十五年九月二十九日に県知事宛てに提出された。合併協議会は平成十五年十月六日に第一回が開催され、新市建設計画の策定、合併の方式、新市の名称、合併の期日、都市内分権などが、以後十四回にわたって協議された。これ以外にも専門部会や幹事会などがたびたび開かれ調整が行われた。平成十六年二月十日に開かれた第五回合併協議会では合併の方式を浜松市への編入合併とすることが決まった。第八回の合併協議会は平成十六年五月十九日に開かれ、合併の期日を平成十七年七月一日と決めた。これまで、平成十七年三月末日までに合併した場合は優遇策を講じることになっていたが、法の改正により一年間弾力的に運用されることになったため、期日を延ばした。これは新市の電算システム稼働の確実性なども考慮したものであった。また、平成十九年四月一日の政令指定都市移行を目指すことも確認された。新市の名称が浜松市に決まったのは平成十六年六月十日に開かれた第九回合併協議会の時であった。新市の名称は関係十二市町村の住民から募集していたもので、応募総数は六千二百八十二件、このうち全体の六十三%を占めた浜松市が新市の名称となった。ちなみに、二位は全体の四・五%の浜名湖市、続いて、はままつ市、天浜市、遠州市などがあった。平成十六年十月六日に開かれた第十三回の協議会では政令指定都市に移行した際の区割り(七つの区)が内定した。十四回にわたる合併協議会の協議結果を受けて、平成十六年十二月十日に合併協定調印式が行われ、年内に十二市町村の議会で原案通り可決された。これらが終わった翌平成十七年一月七日、十二市町村長は静岡県の石川知事に廃置分合申請書を提出した。この添付資料には、廃置分合の必要が生じた事情(理由)を示す書類、合併協定書の写、新市建設計画、議会の議決書、協議書の写、市の現況などがあった。以後、事務手続きとして県議会の議決、県知事の決定が行われ、総務大臣へ届け出、同年四月十八日に告示となった。
○総務省告示第四百五十六号
市町村の廃置分合
地方自治法(昭和二十二年法律第六十七号)第七条第一項の規定により、天竜市、浜北市、周智郡春野町、磐田郡龍山村、同郡佐久間町、同郡水窪町、浜名郡舞阪町、同郡雄踏町、引佐郡細江町、同郡引佐町及び同郡三ケ日町を廃し、その区域を浜松市に編入する旨、静岡県知事から届出があったので、同条第七項の規定に基づき、告示する。
右の処分は、平成十七年七月一日からその効力を生ずるものとする。
平成十七年四月十八日
総務大臣 麻生 太郎
図4-12 政令指定都市構想研究会参加の市町村
【市章】
これより前の平成十七年三月四日に新浜松市の市章が決まった(図4―13)。これは全国から三千六百六十点の応募があり、住民のアンケートなどを経て、新浜松市市章選考委員会で決定した。
図4-13 新浜松市の市章(モノクロ版)
〈作者〉 岡崎伸樹(東京都江東区)
*カラー版では、上部が青色、下部が緑色になります。
〈デザイン趣旨〉 生命の源“水”と“緑”をキーワードに、新しい浜松市の大切な環境である
北部の豊かな森林と、浜名湖・遠州灘の美しい“うみ”をモチーフにデザインしている。
平成十七年六月三十日は合併される十一市町村にとっては最後の日となった。閉市町村式はこれより前の六月十九日に浜名郡雄踏町と舞阪町、磐田郡水窪町で、同二十六日には天竜市、周智郡春野町、磐田郡佐久間町と龍山村で、三十日には浜北市と引佐郡細江町、引佐町、三ヶ日町で行われた。このうち、舞阪町は明治二十二年に町制を施行、百十六年にわたってどことも合併することなくこれまで歩んできた。水窪町は町制施行八十周年となる日が閉町式の日となった。また、龍山村は県内で唯一の村であったが、六月三十日限りで、県内から村という自治体は消えた。
【新しい浜松市の誕生】
そして、平成十七年七月一日に新しい浜松市が誕生、各地で祝典が行われ、旧十二市町村には総合事務所が開所した。面積は千五百十一平方キロメートルで高山市に次いで全国二位、人口は八十一万四千百二十八人(六月一日現在の旧十二市町村)で全国十五位、ともに県内では第一位の巨大な都市が誕生した。これに合わせて経済界にも動きがあり、静岡銀行浜松支店は浜松営業部に昇格し、電子楽器製造のローランドは本社を大阪市から浜松市に移した。