[学校週五日制へ]

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 アメリカ占領下の昭和二十五年に八幡中学校では授業五日制が試行された。四月五日に西遠教育事務所からの連絡で五日制の研究を勧められ、様々な準備を経て五月二十四日から授業五日制が実施された。これはGHQ関東民事部のマクマナスの提起によるもので、中学校では県内数校で試行された。この授業五日制は一日七時限で週三十五時限、土曜日は職業指導・クラブ活動、ホームルーム・大掃除というもので、現在の学校五日制とは若干異なっている。八幡中学校は授業五日制について七月に評価を行い、十二月には授業五日制の研究がまとめられた。それによると、いくつかの点で長所が見られたが、反面生徒の疲労が過大となり、余暇の善用が出来ないなどの短所があまりにも多かったと結論付け、この制度の問題点を明らかにしている(「新らしい日課表による学校経営」(授業五日制の研究)浜松市立八幡中学校)。この制度は県内はもとより、ほかでも定着することはなかった。
 
【学校五日制】
 それから約二十二年、昭和四十七年に日本教職員組合が学校週五日制を提起、翌年文部省も実施を検討したが、時期尚早ということで見送られた。昭和六十一年十月に出された教育課程審議会の答申では、学校五日制の問題は社会情勢の変化との関連を考慮して長期的な見通しの下に検討すべきとした。この頃民間企業の完全週休二日制が普及し、公務員の四週六休制(国・静岡県は平成元年から、浜松市は同二年から)、官庁の土曜閉庁(国は平成四年五月から、静岡県は同年八月から、浜松市は同五年四月から)が始まりつつあった。文部省はこれらの社会情勢を考慮し、平成二年度から学校五日制の実験校を指定し、そのあるべき姿を模索していった。学校五日制の文部省指定調査研究地区の一つに浜松市が選ばれ、飯田幼稚園、飯田小学校、東部中学校、浜松北高校、浜松盲学校が調査研究協力校となった。そのほか、多くの学校や校長会、教職員組合などでも五日制の研究に取り組んだ。そして、学力水準の確保、学校外での子供たちの過ごし方、土曜日や日曜日における社会教育機関やボランティアなどの受け皿、保護者への啓蒙活動などについて様々な調査や実践がなされ、また、多くの課題も浮かび上がってきた。受け皿となる図書館、博物館、公民館など各種の社会教育機関でも学校五日制に協力する施策などが考えられていった。こうして、平成三年十二月、文部省の調査研究協力者会議は同四年度から導入する学校五日制の実施計画(中間報告)を公表した。それによると当面は月に一回、土曜日を休業日とすること、そして教育水準の確保、受け皿としての諸条件の整備などを求めた。これを受けて文部省は平成四年三月二十三日に学校教育法施行規則の改正を公布、九月から毎月第二土曜日を休業とする学校五日制が正式に決まった。浜松ではこれに向けて学校や地域、家庭でも様々な工夫や取り組みがなされ、『広報はままつ』や「学校五日制だより」、「アクセス」などでそれらの取り組みが紹介されていった。こうして、平成四年九月十二日に学校五日制が始まった。そして、同七年四月二十二日からは第四土曜日も休業となり、同十四年四月からは完全学校週五日制が実施された。

図4-21 学校週五日制 幼児・児童・生徒対象のアンケート

【完全学校週五日制】
 平成四年に月一回の学校五日制が始まって一年、県教育委員会は県内の公立幼、小・中・高校などの幼児・児童・生徒など約三千九百人にアンケート調査をした。調査は、主にどんなことをして過ごしたかと誰と過ごしたかについてなどで、その結果は図4―21のようになっている。教育委員会はゆとりある生活が出来ていると評価しているが、一方で自然体験や社会体験などがもっと出来るように子供たちに指導したり、保護者や地域社会との連携を図る必要性を強調していた(静岡県教育委員会『教育広報』平成五年十一月九日発行)。
 平成十四年四月からは全ての土曜日を休みとする完全学校週五日制が実施された。これに向けて子供たちが休みの日を有意義に過ごせるように浜松市、学校、地域、家庭などで様々な体験活動の場や機会が設けられるようになった。特に、社会教育施設の博物館や科学館、図書館、美術館、公民館などでは土曜日や日曜日の活動を充実させた。ある公民館では退職した教員で組織された会が特色あるイベントや講座を開催し、子供たちを喜ばせた。市は生涯学習の講座やイベントなどを紹介する情報紙の「アクセス」をはじめ、いろいろな冊子を発行して情報提供を行った。学校では教科内容の厳選と同時に始まる新学習指導要領への対応(総合的学習など)を急ぎ、中学校では第二・第四の土・日曜日は部活動を自粛し、家族との触れ合いや地域での活動などに積極的に参加させるように努めた。また、地域のスポーツクラブも整備していった。