【日系ブラジル人 国際理解教育 ブラジル人学校】
日系ブラジル人が日本に出稼ぎに来るようになったのは昭和六十年頃である。平成二年六月に出入国管理及び難民認定法(入管法)の改正により、多くの日系ブラジル人が日本に来ることになった。昭和六十一年には浜松在住のブラジル人はわずか十二人であったが、平成二年三月末には千四百五十七人、同三年三月末には四千人を超え、同七年十二月末には七千人となり、全国の都市で最多となった。また、平成十三年十二月にはその数は一万二千人を超えた。平成二年の入管法の改正以降は単身での出稼ぎから家族を呼び寄せる人が増え、それに伴い日系ブラジル人の子弟が浜松の学校に編入学するようになった。平成二年には小学校三十七人、中学校三人であったものが、同五年には小学校二百四十六人、中学校七十九人とその数は急増した。日系ブラジル人の多くは輸送用機械工場が多かった高丘や葵東、葵西周辺に住所を置いたため、その子弟は瑞穂・葵西の各小学校と開成中学校に編入学する者が多かった。初めはこの子供たちをどのように指導するか戸惑いが見られた。日本語が全く分からないため、年齢より低い学年に入れてみたり、子供たちのストレス発散のために母国語で語り合える場を設けたりしていた。浜松市教委が「日本語―ポルトガル語一口会話集」を作成したのは平成二年十月、そして瑞穂小学校にはポルトガル語が堪能の指導助手が配置され、平成五年からは外国人の児童・生徒が十人以上在籍する学校を拠点校とし、希望があれば遠い所からも学区外通学することを認めた。これらの子供たちは和式トイレが使えない、ピアスをしてくる、運動会の習慣がない、勉強時間の長さや勉強することの多さに驚く、制服の着替えに違和感を持つなど、日本の学校生活に戸惑いを見せた。これらの指導は浜松の教師にとって大きな負担となった。平成八年度における瑞穂小学校の外国人児童(ブラジル人三十五名、ベトナム人三名、ペルー人二名、フィリピン人二名)への適応指導では、無理に日本語の指導を行うのではなく、遊びや折り紙などの制作などで自然に日本語を学べるようにしたり、母国語の話せる講師により母国語の指導も行うなど、スムーズに適応できるように工夫がなされていた。また、外国人児童・生徒の多い学校では取り出し授業(外国人の子弟に別室で日本語を教える授業)が行われ、また、学校では国際理解教育が推進され、相互理解への学習や集会がたびたび催された。ただ、低学年に編入学した子供たちの指導に比べ、中学校へ初めて編入学した生徒は取り出し授業を週に七時間程度を行っても、社会科・理科やほかの教科では普通の教室で授業を受けるため、授業についていくのは困難が伴った。外国人の生徒の中には不就学も多く、また、十五歳になれば卒業を待たずに就職するといった者も出ていた。学校以外では公民館や国際交流協会などの協力もあって、日系ブラジル人やその児童・生徒などとの交流が盛んに行われるようになり、問題点の解決に当たっていった。日系ブラジル人の中には、市立の学校では子供たちが授業についていけないとか、母国語であるポルトガル語が心配になるとの声が出始め、浜松にブラジル人学校を設立しようとする動きが出てきた。最初は私宅や小さな事務所で塾のような存在であったが、平成七年九月二十四日、北寺島町にコレジオ・アングロ・アメリカーノが開校した。これは日系ブラジル人でブラジル雑貨店を経営する増子利栄が運営するもので、二年前から小さな教室を開設したものを大きくし、教師は三人、対象は七歳から十七歳まで、生徒は三十人でスタートし、子供たちがブラジルに帰国しても困らないような学力を付けたいとの願いからであった。ブラジルの教育カリキュラムによって授業を行う学校はこれが初めてであると言われた。児童・生徒の数は次第に増え、一時は百八十人にも上ったが、授業料をこれまでの月三万五千円から四万五千円に値上げせざるを得なくなった。これにより出稼ぎ家庭には負担が重く、平成十年三月にやむなく閉校に追い込まれた。これから一年後の平成十一年二月、上島一丁目にエスコーラ・ブラジレイラ・デ・ハママツが開校した。この学校は幼稚園から中学校までの課程を教えるもので約七十人が在籍していた。平成十二年二月一日には富塚町にコレージオ・ピタゴラス浜松校が開校した。三歳から十七歳までの児童・生徒約七十人、ブラジルの関係者や保護者たちは母国語で子供たちを教育できることに喜びを感じていた。平成十三年四月には天王町にエスコーラ・アレグリア・デ・サベール浜松校が開校した。このほかにも数校が開校したようだが、詳細は不明である。これらの学校は近隣の学校との交流を持ち、また、市から机や椅子の寄付、国際ソロプチミスト浜松などから絵本の寄贈、浜松外国人医療援助会や浜松中ロータリークラブによる学校集団検診など様々な援助や交流がなされていった。しかし、私立学校ゆえ保護者の経済的な負担の多さから児童・生徒の減少が続き、その後休校や閉校が相次ぐようになった。