文化的な活動としては遠山栄一(詠一)指揮の浜松商業高校吹奏楽部が全日本吹奏楽コンクールや全日本マーチングバンドコンテストにおいて常に金賞や銀賞を取っていた。これに刺激されて浜松海の星高校の吹奏楽部ほか多くの高校でも良い成績を残した。誠心高校(後の浜松開誠館高校)では管弦楽部による誠心フィルハーモニーオーケストラの定期演奏会が平成二年から始まり、関係者から高い評価を得た。ヤマハ音楽教室で学んだ浜松北高校国際科三年生の上原ひろみは平成八年六月に国連本部で行われたユニセフ設立五十周年記念国連コンサートに出演、以後国際的なジャズピアニストになっていく。信愛学園高校(後の浜松学芸高校)の音楽科も定期演奏会を開催、その中でオペラを上演するまでになった。特に平成六年から玉川昌幸の指導によりめきめきと力を付け、音楽の街・浜松の話題となった。また、同校音楽科の小林えりは平成十二年に開かれた浜松国際ピアノコンクールに県内から唯一出場するなど、音楽科に学ぶ生徒の力が付いてきた。このほか、鈴木梅太郎賞や日本学生科学賞、全国プログラミングコンテスト、囲碁、将棋、写真、アマチュア無線、書道などの部門でも多くの生徒の活躍が目立った。
スポーツの分野ではこれらを上回る活躍が見られた。平成二年に北京で開かれた第十一回アジア競技大会に出場した浜松商業高校の漢人陽子は百メートルバタフライで三位入賞と健闘した。平成六年五月に草薙陸上競技場で開かれた静岡国際陸上には内外から二百八十余名が参加、浜松東高校の三室聡子は棒高跳びで三メートル二十の日本新記録を出し最優秀選手賞を獲得、この後中京大学梅村陸上競技場で開かれた大会ではそれを上回る三メートル三十の日本新記録を出した。
【全国高等学校総合体育大会】
全国高等学校総合体育大会が平成三年八月一日から静岡県内二十四の市町で開催された。この大会には全国から約二万五千人の選手が参加した。全国から集う大勢の選手を温かく迎え、大会がうまく運営されるよう県内の約十六万人の高校生が一人一役運動を繰り広げた。大会前には会場や駅前などを飾る花づくりや参加選手に記念品として贈るキーホルダーづくりなどに励み、当日は大会運営や競技補助員として、また、プラカード、ブラスバンド、成績表示などで大きな役割を果たした。浜松市では浜松アリーナを主会場に八月一日から七日までバスケットボール、八月八日から十二日まで卓球の大会が行われた。そのほか、多くの学校の体育館でも競技が行われたり、早朝や午後にその練習が行われた。これらの早朝練習の世話も地元の高校生が務めた。女子のソフトボールは八月一日から五日まで和地山公園野球場で行われたが(図4―23)、地元の高校の出場はなかった。バスケットボールには男子は興誠高校と浜松西高校が、女子は西遠女子学園高校と浜松市立高校がそれぞれ出場し、大声援を受けて健闘したが上位入賞は果たせなかった。卓球の学校対抗には男子は浜松工業高校、興誠高校が、女子は浜松女子高校と誠心高校がそれぞれ出場、このうち誠心高校は決勝で名門の白鵬女子高校に破れたものの準優勝を果たし、満場の観衆から大きな拍手を受けた。女子シングルスでは浜松女子高校の野末愉美が決勝で破れたが堂々全国第二位を勝ち取り、女子ダブルスでは誠心高校の大森あゆ美・宮木佐和子組が第三位に入る活躍を見せた。浜松商業高校の陸上部は以前から全国的な活躍を見せていたが、小野友誠は男子八百メートルで平成二年に続いてこの高校総体で二連覇を達成した。なお、以後も浜松商業高校の陸上部は全国総体や国体で陸上の総合優勝を果たすことになる。同じく陸上に強い西遠女子学園高校の青島友美は女子やり投げで二連覇、男子棒高跳びでは興誠高校の中森徹が優勝した。水泳では浜松商業高校の鈴木淳矢が男子二百メートル平泳ぎで優勝し、市民の期待に応えた。
図4-23 和地山公園野球場で行われた全国高校総体女子ソフトボール決勝戦
【甲子園】
高校球児の夢は甲子園出場であるが、平成二年から同十五年までに浜松商業高校は春と夏で四回、浜松工業高校も四回出場している。また、平成十四年夏の県大会では興誠高校が初めて優勝し、甲子園の土を踏んだ。この時期になると、実力は伯仲し、どこの高校が甲子園に行ってもおかしくないほどになった。
浜松には漕艇競技に適した佐鳴湖があり、周辺のいくつかの高校には漕艇部(ボート部)が作られ、全国大会で優勝や上位に食い込むチームが数多く出た。