【静岡県立大学短期大学部 静岡文化芸術大学】
昭和五十年代になると大学への進学率が高くなり、男女とも四年制の大学を希望する生徒が増加してきた。これを受けて静岡女子短期大学は四年制への移行を検討することになったが、県当局は前述のように静岡県立大学を昭和六十二年に設立、浜松にあった静岡女子短期大学はその短期大学部となった。平成の時代となり、経済界や多くの市民からこの短期大学部を拡充整備し、文・理系の四年制大学にしたいとの要望が出始めた。平成五年十一月に開かれた県高等教育懇談会で浜松市長は「文科系大学の設置を望む市民の声は大きい。市でも検討を進めて…」と発言している。翌月に県立大短期大学部の将来構想推進委員会は人文系四学部(人間文化学部、社会情報学部、人間健康科学部、産業芸術学部)を設置し、四年制の大学とする構想案をまとめた。平成六年には県高等教育懇談会と浜松市大学等高等教育懇話会が共に四年制化を提言、運営設置形態については第三セクター的方式を含めた新しい形態を提言している。これらを基に新大学基本構想検討委員会の第一回会合が平成六年八月に開かれ、県内外の二十一人の有識者が新大学の運営、学部、設置場所などで審議を進めていくことを決めた。平成七年三月に同委員会は新大学について、人間文化学部とライフデザイン学部の二学部、運営は第三セクター方式、人、社会、地域に貢献できる大学などを石川知事に提言した。翌四月、県は初代学長に新大学基本構想検討委員会で会長を務めた京都大学の高坂正堯教授を任命する方針を明らかにし、九月をめどに基本構想を立てることとした。九月になって設置場所は浜松市中心部の東地区(現在地)にすることを決め、平成十二年四月の開学を目指した。平成十一年十二月、文部省の大学設置・学校法人審議会は平成十二年度開設を目指して諮問のあった静岡文化芸術大学の新設を答申した。学部、学科と定員は文化政策学部国際文化学科百人、文化政策学科五十人、芸術文化学科五十人、デザイン学部生産造形学科四十人、技術造形学科三十人、空間造形学科三十人と決まった。初めての入試は平成十二年一月の推薦入試から始まったが、技術造形学科は九・一倍、平均でも四・九倍となった。二月の一般前期入試では文化政策学部は十二・四倍、デザイン学部は五・八倍の高倍率であった。市民期待の静岡文化芸術大学は平成十二年四月十三日に開学式と入学式を迎えた。初代学長は予定されていた高坂正堯教授の死去に伴い東京大学名誉教授の木村尚三郎が就任した。希望を胸にこの日入学した一期生は文化政策学部二百六十二人、デザイン学部百二十二人の三百八十四人、文化政策とデザインを組み合わせた日本では初めてのユニークな大学としてスタートを切った。県内では初の公設民営の大学で、「地域に開かれた大学」を標榜していることから図書館や自由創造工房などを一般に開放したことも特色の一つであった。なお、初代のデザイン学部長になったのは日本の工業デザイナーの第一人者の栄久庵憲司、彼は日本楽器製造のピアノやオーディオ、ヤマハ発動機のオートバイのデザインを手掛け、浜松とゆかりのある人物であった。
【浜松学院大学】
ところで、静岡県立大学短期大学部の第一看護学科と第二看護学科は平成九年四月に静岡市小鹿二丁目に開学した静岡校に移設、同校は時代の要請に応えて歯科衛生学科と社会福祉学科を新設した。平成十二年四月の静岡文化芸術大学の開学に合わせて、静岡県立大学短期大学部の本部はこれまでの浜松市布橋三丁目から静岡市小鹿二丁目に変更された。そして同短期大学部の浜松校に残っていた文化教養学科と食物栄養学科は平成十三年三月に廃止となり、昭和四十一年四月に設立されてから三十五年の歴史を刻んだ浜松校は閉校になった。なお、この跡地には平成十六年四月に浜松学院大学が開学した。