【オリンピック】
平成四年に開かれたバルセロナ五輪では沼津市立第五中学校の岩崎恭子が女子二百メートル平泳ぎで金メダルに輝いて話題になった。また、浜松西高出身の溝口紀子は、柔道五十二キロ級で銀メダルを獲得している。この大会で河合楽器体操部の松永政行と知念孝は体操の男子団体で三位に入り、銅メダルを獲得して浜松に凱旋した。浜松商業高校の漢人陽子は女子四百メートルメドレーリレー(バタフライ)に出場、日本新記録を出し七位に入賞している。平成八年のアトランタ大会では日本楽器製造の野球部監督を務め、過去三度都市対抗野球で黒獅子旗を獲得(優勝)した川島勝司が日本チームの監督となり、強豪アメリカを撃破、決勝ではキューバに敗れたものの銀メダルを獲得した。オリンピックと言えば、浜松出身の田畑政治はヘルシンキ・メルボルンの選手団長を、さらにJOC委員長を務め、古橋廣之進もバルセロナ、アトランタの選手団長、JOC会長のほか、国際水泳連盟副会長としても活躍した。
【NEW!!わかふじ国体 全国障害者スポーツ大会「わかふじ大会」】
平成三年に開かれた全国高校総体については第二項で述べた。昭和三十二年の静岡国体から四十六年ぶりに国体が静岡県に回ってきた。平成十五年の国体を県は「NEW!!わかふじ国体」とし、三百七十九万の県民は「〝がんばる〟が好き」のスローガンの下、一丸となって大会の準備や運営に努めた。この国体の特色の一つは県民がつくり上げる国体ということで、県内七十三全市町村で正式競技、公開競技、デモストレーションとしてのスポーツ行事のうち一種目以上を開催することにした。また、夏季大会のメーン会場は富士市、秋季大会のそれは袋井市となり、県庁所在地の静岡や人口の多い浜松ではなかった。夏季大会の開会式は平成十五年九月十三日に富士市の静岡県富士水泳場で行われた。同日午前九時から浜松で唯一の競技であるボウリングの開始式が会場となった有玉南町の浜松毎日ボウルで開催された。大会は少年男子・女子、成年男子・女子の四種別、五県を除く全国各地から監督・選手四百五十六名が参加した。秋季大会に先立つ十月三日夜、炬火リレー浜松コースの採火式がアクトシティ浜松ショパンの丘で行われた。採火は技術と文化の世界都市・浜松にふさわしく、静岡大学工学部が作成した色素増感太陽電池による最先端の技術を駆使して行われ、遠州浜松・ハーモニーの火と命名された。翌四日朝に市役所で出発式を行い、浜北市から豊岡村などを経て袋井市のエコパスタジアムに向かった。秋季大会の開会式は十月二十五日に袋井市のエコパスタジアムで行われた。正式競技のうち浜松ではテニス(花川運動公園テニスコート、監督・選手四百六十一名)、少年女子のバスケットボール(浜松アリーナ、同六百十一名)、少年女子のソフトボール(和地山公園グラウンド、同二百二十四名)、弓道(浜松市弓道場・可美公園特設遠的弓道場、同四百十二名)、成年男子のラグビーフットボール(県営遠州灘海浜公園球技場、同二百六十四名)、空手道(アクトシティ浜松展示イベントホール、同四百六十二名)、自転車(ロード・レース、浜松市など遠州灘特設ロード・レース・コース、(監督・選手三百二十九名)の七競技が開催された。秋季国体の陸上競技(成人男女)ではスズキ(株)に所属する選手の活躍が目立ち、四百メートルハードルで河村英昭、やり投げで村上幸史、百メートルハードルで池田久美子が優勝、成年・少年女子共通の四百メートルリレーではスズキの鈴木亜弓、池田久美子、浜松商業高校の山本晃代、静岡市立高校の小澤洋子のチームが、軟式野球一般Bではホンダ浜松が、少年女子新体操では浜松市立高校の村上奈緒、小野嘉巳、福澤由佳選手を含むチームが、体操成年男子では河合楽器の畠田健次を含むチームがそれぞれ優勝した。浜松市で開催された競技の一般観客入場者数はソフトボールが二万五千六百人、テニスが一万六千六百人、バスケットボールが一万六千二百人など、夏季大会を含めた八競技で合計九万五千四百五十人を数え、日本一流の競技や演技に見入った。国体に向けて静岡県は選手の強化に力を入れ、その成果が実り、天皇杯と皇后杯を獲得するという快挙を成し遂げた。国体が終わった後の十一月八日から第三回全国障害者スポーツ大会「わかふじ大会」が県内各地で開催された。浜松ではボウリング(浜松毎日ボウル、選手二百五名)とバレーボール(浜松アリーナ、聴覚障害の部男女十六チーム選手百七十名、知的障害の部男女十三チーム選手百二十六名)が行われた。この大会でも多くのボランティアが活躍し、県外から訪れた人たちを感激させた。