【とびうお杯少年少女水泳競技大会】
「フジヤマのトビウオ」として世界にその名を知られた古橋廣之進の偉業を讃(たた)え、次の世代を背負うスイマーを育てようとして始まったのがとびうお杯少年少女水泳競技(研修)大会である。第一回は昭和六十一年八月九日・十日の両日、浜松市江之島水泳場で開催された。一都五県から集まった学童は約三百人、小学生だけの全国大会は初めてで、新聞の見出しには「飛び出せ!!第二、第三のトビウオたち」と出ていた。この大会で最も注目を浴びたのは漢人陽子、個人の八種目中六種目で優勝する活躍を見せた。漢人は後にバルセロナオリンピックに出場する。このとびうお杯に出場し、後にオリンピックまで出場したのは漢人をはじめ、源純夏、中村真衣、萩原智子、中西悠子、北島康介、岩崎恭子などがおり、本大会を足掛かりに世界に伸びていった。平成十二年に開かれたとびうお杯第十五回全国少年少女水泳競技大会には全国トップレベルの小学生スイマー約千名が出場するまでになった。
【県駅伝競走大会 静岡県市町村対抗駅伝競走大会】
県駅伝競走大会が始まったのは昭和四十五年、交通事情によりコースはたびたび変更され、平成三年当時、男子は磐田郡竜洋町から榛原郡榛原町まで七区間五十・四キロメートル、女子は小笠郡浜岡町から榛原郡榛原町まで五区間十八・一キロメートルで行われた。一般では鈴木自動車工業(今のスズキ)や本田技研浜松などが、高校では浜松商業高校や浜松日体高校が優勝や上位を占めていた。また、女子はユタカ技研やスズキ、浜松日体高校などが優勝や上位に入っていた。この県駅伝は平成十一年の第三十回大会でその幕を閉じ、平成十二年からは県内の全市町村が代表ランナーを送り込む静岡県市町村対抗駅伝競走大会となった。これは県内市町村の交流促進、県民意識の高揚、長距離界の充実などを目的としていた。この大会の特色は小学生、中学生、高校生、一般、四十歳以上などの選手が十区間でたすきをつなぐというもの、また、県内の全市町村が参加することでも大きな話題となった。浜松市は平成十五年の第四回大会で市の部で初優勝を飾った。
【中日浜名湖一周駅伝競走大会】
中日浜名湖一周駅伝競走大会が初めて開催されたのは昭和五十二年二月十三日、舘山寺温泉をスタート、細江町、三ヶ日町、湖西市など浜名湖を一周して舘山寺温泉までの五区間五十五・三キロ、国内トップクラスの神戸製鋼や日体大などのほか、東洋ベアリング桑名A、鈴木自動車、本田技研浜松など三十二チームが参加し、全国でも有数の駅伝大会となった。地元期待の鈴木自動車は五位、本田技研浜松は十二位に入った。地元の鈴木自動車Aが初めて優勝したのは昭和五十八年、以後、ほとんどの大会で優勝を飾り、平成五年からはスズキAが五連勝、平成十年からは本田技研浜松Aが四連勝している。平成元年からは高校男子の部を設け、西脇工業、中京商業、佐久長聖など国内トップクラスの高校が参加し、地元の高校への大きな刺激となり、浜松商業高校や浜松日体高校も活躍した。女子はスズキが強くたびたび優勝、また、ユタカ技研も優勝している。
【佐鳴湖国際マラソン駅伝大会】
佐鳴湖を一周する道路が出来てから地元の人たちはジョギングを楽しむようになった。この人たちは、「佐鳴湖の湖岸で駅伝でもやれば、この湖に多くの人が関心を持ってくれるかもしれない」と考え、昭和六十年六月二十三日に第一回佐鳴湖国際マラソン駅伝大会がスタートした。これは選手の育成や新記録を狙うというものではなく、年齢制限をせず、楽しく走ろうとの願いから始まった。次第に参加チームが増え、平成十一年の第十五回大会には六十一チーム約六百五十人が参加、国際大会の名前の通り、浜松に住む外国人や留学生の姿も目立った。この大会は地元の人たちによる手作りの駅伝として有名になった。