寺院の郊外移転

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 十数年続いた高度経済成長も昭和四十五年以降、対外的経済環境の激変(ドル・ショック、オイル・ショック)により低落、昭和五十年代後半になると「黄金の国ジパング」と呼ばれて貿易は伸びたが、アメリカとの貿易摩擦を引き起こした。このドル高円安の状況は昭和六十年の先進五カ国蔵相・中央銀行総裁会議におけるプラザ合意で是正され、円高が急速に進んだ。超低金利と金余りのために、地価と株価の異常高騰でふくらんだ経済(バブル経済)が進行したが、平成二年の公定歩合の引き上げと不動産融資に対する総量規制を契機に崩壊していった(『新編史料編六』 五産業・経済の解題・解説参照)。
 バブル崩壊後もバブル時代に発議された計画ゆえに、その余徳とも言うべき事態が、浜松市の都市化の進捗過程で寺院移築に影響を与えた。その大きな伽藍構築の例が二つ、『静岡新聞』に表れている。
 
【西見寺】
・西見寺
 平成二年二月二十四日付と同三年三月五日付の記事として、平鏡山西見寺(曹洞宗・平田(なめだ)町)が西鴨江町の丘陵地にあった圓通山花学院跡地に新築し、圓通山西見寺と称することになった例。
 西見寺は敷地面積約七千二百平方メートル、建築面積約千八百平方メートル。本堂、庫裡、檀信徒会館、坐禅堂、稲荷社、馬頭観世音菩薩堂などを擁するものである(平成三年四月十三日に落慶)。この馬頭観世音菩薩堂には京都の松久宗琳仏師による木彫馬頭観世音菩薩立像が祀られている。

図4-24 西見寺の本堂

【新豊院】
・新豊院
 平成二年九月二十日付の記事として、浜松駅南口に面した瑞應山新豊院(曹洞宗・砂山町)が都市化進展による道路拡幅に伴って、三方原町に広大な寺域を擁して移転した例(平成二年九月十九日に落慶法要)。同寺は、廣澤山普済寺(曹洞宗・広沢一丁目)の開創・華蔵義曇和尚の閑栖所・隨縁寺〔正長元年(一四二八)〕であった由緒を有している。