【法永寺の百句塚 田辺寛司 大木隨處 高井春雄】
平成四年四月四日付記事では、法永寺(浄土宗・笠井町)にある百句塚の句碑の手入れがなされたことを報じている。これは「郷土の歴史と文化を学ぶ会」(田辺寛司会長)が法永寺境内にある歌碑(五首)・漢詩(一首)を含む約百三十基の句碑の、苔むした表面を清掃整備し、墨を入れて読めるようにしたものである。この句碑群は日露戦争が終わった明治三十九年の六月、大木随處(ずいしょ)の発起、松島十湖の後援によって建立された。初めは笠井町の福来寺境内観音堂裏側、忠魂碑周囲に建立された。大正八年頃に笠井町役場の移転に伴い、忠魂碑とともに笠井町御殿山の稲荷社に移設された。昭和二十八年四月、松島十湖門人の高井春雄の尽力によって法永寺に移設されたものである。
【松島十湖】
なお、この笠井地区や長上地区の周辺には近世に建立された句碑や、松島十湖自身、あるいはその門流が建立した句碑が数多く存在する。その場所を記すと、静岡県総務部学事課に登録された名称でいう太徳教会(神道修成派・豊西町)の百人一句塚、松島十湖菩提寺の源長院(曹洞宗・豊町)、長泉寺(臨済宗方広寺派・小池町)、定明寺(浄土宗・笠井町)、法光院(浄土宗・笠井新田町)、十七夜観音堂(笠井新田町)、豊西上公会堂(豊西町)の旧松島十湖撫松庵邸前句碑群等々である。
【『十湖発句集』】
松島十湖とその門流が句碑を郷土の寺院等に建立した熱意は何か。それは報徳仕法が培った倫理観に基づく農政改良の実践者として、また、人間社会の不易流行を自覚した俳諧の指導者として、俳諧の先達への敬仰精神から発したものにほかならず、その影響は戦後の後継者である田辺寛司会長らに及ぶものであろう。松島十湖関係の句碑については、松島勇平編集『十湖発句集』(平成三年十月刊)を参看されたい。