戦後に導入された民主主義社会の政治の基本的原理は主権在民であり、政教分離の原則である。日本国憲法に制定されている政教分離の原則とは、言うまでもなく「政治と宗教を分離すること、個人の信仰という内面の問題について政治が関与してはならないということ」(『新編史料編六』 四宗教 史料12)である。
日本の過去における神と人間生活との関わり方について見ると、国土、地域の自然から四季折々の海・山の恵みを獲得し、生活の糧にしてきたから、人間社会を取り巻く森羅万象を神とあがめ、他方では自然災害の天変地異を畏怖してきたから、人間社会の統率者はその神に働きかけ鎮める方法が必至であり、社会の規範を制定することになる。
【御成敗式目】
笠松宏至校注による「御成敗式目」貞永元年制定(『日本思想大系21』所収、岩波書店刊)の第一条の冒頭には、「神は人の敬ひによつて威を増し、人は神の徳によつて運を添ふ(*増す)。然ればすなはち恒例の祭祀陵夷(*次第に衰える)を致さず、如在(*神が目前にいます如く)の礼奠(*神前にささげられる供物)怠慢せしむるなかれ。」(*括弧内は笠松宏至の校注を引用)という神への崇敬の念、つまり、「神社を修理し、祭祀を専らにすべき事」を為政者が規定しているのである。これは笠松宏至の補注の如く公家法以来の文言で規定され、政教分離の原則が確立する遥か以前の、政治と宗教に関する人間社会と神との関わり方として、歴史的通念の基底にあったと思われる。
戦前の国家神道を地方自治体がどのように総括したのか。前にも言及したが、『新編史料編六』 四宗教 史料12によれば、「浜松市が遺族会の靖国神社参拝のための費用を支出し、十四名(実際は十名)の市職員を付き添わせたこと」が問題視され、浜松市は「昭和四九年八月二二日」付けで浜松市政教分離原則侵害違憲訴訟原告団によって、静岡地裁への住民訴訟を受けた。その後、第一回公判直前に原告団は「目的をほぼ完全な形で実現」したとして、「『覚書』を交換することによって訴訟を取り下げ」たのである。
【政教分離】
かくて浜松市および自治会が到達した地点は、政教分離の原則を確認し、浜松市が自治会に配分する運営費補助金の支出には政教分離の原則に反しないことを監査し、また、「遺族会に対する靖国神社参拝補助金と、これにかかわる一切の援助を遺族会自ら返上することを総会にて決定し、市当局も今後、補助金を支出せず、援助もしない方針を定め」るに至った。
『新編史料編六』 四宗教 史料13所収の浜松市自治会連合会編の「三十五周年の歩み」(昭和六十年五月刊)によれば、自治会が担う具体的な祭礼行事について次の様に分析した。礼拝や儀式祝典等は直接宗教的要素を含む行事である。これと区別して、祭の余興、レクリエーション的行事は地域の習俗・伝統的遺産としての行事である。後者の「行事を通じ住民が郷土感にひたり」、「共通の連帯意識をはぐくむこと」になるので、「これに自治会が参加することは差支えない」、というものである。これを前提にして、『静岡新聞』紙上で報じられた習俗や伝統行事の記事を幾つか拾うことにする。