平成三年以来五年続きの地価の下落と、一ドル八十円を割り込む(平成七年四月に円相場が七十九円台へ)急激な円高によって、平成七年以降は金融機関の破綻が相次いだ。金融システム崩壊を懸念した日本銀行は、不況による民間資金需要の減退と円高対策として超低金利政策に踏み切った。バブル時の平成二年八月に六%だった公定歩合は、平成三年七月から段階的に引き下げ、平成七年九月には〇・五%まで引き下げた。この低金利は金融機関の不良債権の処理において、大いに役立った。金利低下は、まず銀行の資金調達コストを引き下げさせ、それに対して運用金利低下が遅れる傾向にあるため、銀行の利鞘を拡大させることが出来た。そのため銀行は、これを利用して不良債権の償却を進めることが出来たのである。しかし、この低金利政策は金融機関の不良債権処理を遅らせる一因にもなった。
【BIS規制 貸し渋り 貸しはがし】
また、バブル崩壊が金融危機にとどまらず実体経済を長期の不況へ追い込んでいった背景にはBIS規制の影響もあった。アメリカのブラックマンデーの翌年(昭和六十三年)、先進国の金融当局は、国際決済銀行(BIS)の下、金融機関が国際業務を営む場合は自己資本比率が八%以上、国内業務を営む場合は四%以上とする自己資本比率規制を決めた。いわゆるバーゼル合意である。これは、金融機関の健全性確保と国際的な金融機関の競争条件の均等化を企図したものであった。この合意では平成五年三月までに自己資本比率を達成する必要があった。ところが、バブルの崩壊によって多額の不良債権を抱えた日本の金融機関は自己資本比率(貸付総資産に対する自己資本の割合)が低下し、場合によっては債務超過、経営破綻にもつながる危険性が出てきた。そこで銀行は自己資本比率が減少する以上に分母の貸付総資産、つまりその多くを構成する融資を減らそうとしたのである。その結果、資金の貸し付けを抑制することになり、一種の信用収縮(クレジット・クランチ)を招くことになった。さらに、金融機関のこのような行動に拍車を掛けたのが株価の下落に伴う含み益の減少であった。なぜなら銀行の自己資本の中には本来の資本金や準備金のほかに株式の含み益の四十五%に相当する額を算入することが認められていたからである。そこで金融機関は含み益の減少や含み損の増大による自己資本比率の低下を防ぎ、一定の比率を維持するために融資を抑え、「貸し渋り」や「貸しはがし」を行った。これにより市中への資金の流れが急速に低下し、企業は投資資金だけでなく運転資金も調達できず、倒産する会社が増えていった。これが、金融危機を実体経済の不況へ結び付けた仕組みでもあった。
さらに、この超低金利政策は資金の流れを大きく変えた。バブル崩壊の後遺症と急激な円高によって民間部門の資金需要は極めて低調に推移した。それに対して、公的部門からの資金需要が著しく、特に、中央政府からの資金調達が拡大していった。これは、平成四年八月の総合経済対策以来、六次にわたる景気対策のために政府の財政支出は六十兆円以上に達したものの、税収は景気の低迷により伸び悩んだため、膨大な公債を発行せざるを得なくなったからである。しかし、この景気対策にはからくりがあった。中央政府は赤字国債依存からの脱却という目標があったため、景気対策の負担は地方財政に押し付けられた。その結果、地方単独事業の拡大を通じて、地方債の増発、借入金の増大など、地方の資金調達が拡大し、地方財政の赤字が累積していった。つまり、資金の流れが民間部門から公的部門へ移っていったのである。