平成十二年四月に開学を予定していた静岡文化芸術大学は大学の付属施設として産業考古学館の構想を打ち出した。そのきっかけは、平成九年二月に開催された静岡経済同友会浜松協議会主催の経済サミットでの、学長予定者(当時)であった木村尚三郎の講演であった。その講演で木村は「先人の知恵を掘り起こす意味で、付属の産業考古学館がほしい」ことを表明した。これをきっかけに浜松商工会議所は産業考古学館建設促進協議会を設置し、建設基金と資料となる収蔵品収集を幅広く呼び掛けることになった。明治・大正・昭和にわたって浜松の経済発展を支えてきた産業に関する製品や機械などを幅広く収集し、浜松の産業発展を振り返ることの出来る施設を建設することになった。設置場所は西武浜松店跡地や大学敷地内など二転三転したが、最終的には、大学に隣接した野口公園内にある中ポンプ場(中部浄化センターへ汚水を送水する中継ポンプ場)の上に産業考古学館を建設することに落ち着いた。
その後、大学内において作業部会が組織され、基本コンセプトに基づいた施設や収蔵品の内容、運営方式などが検討され、さらに製品開発の過程を紹介する展示場と収蔵庫をそのまま公開するなどの具体案も提示された。しかし、静岡県の財政上の理由から平成十五年に建設が凍結、実現に至らなかった。