昭和三十年代後半から、市内の農協の合併が進められてきたが、平成三年十月になると、浜松地区農協合併研究委員会が組織化され、国内最大規模の農協の設立を目指すことになった。当初、研究委員会は浜松地区の十五農協(浜松市都田・同三方原・同吉野・同伊和富・同庄内・同高台・同中央・同南・浜松東・同西・湖西・三ヶ日町・細江町・引佐町・浜北市)の大型合併を目指し、合併作業を進めていった。大型合併の狙いは①特産農畜産物の産地の強化、②購買品の仕入れ力の強化、③物流拠点施設の設置、④兼業農家対策の強化、⑤広域大規模農協による発言力強化、⑥事業規模と資金量の拡大で事業対応力強化などであった(浜松市南農協『のうきょうだより』平成四年一月号)。合併が実現すると、組合員数は約六万六千人、事業量では、購買品供給高は三百六十五億円、販売品販売高四百七十九億円で、いずれも日本一の規模になる。また、貯金高では五千九百二十一億円で信用金庫レベルになり、市内では浜松信用金庫に次ぐ資金量になる(『静岡新聞』平成四年十一月一日付)。この十五農協の合併構想について、各農協単位で組合員の話し合いが持たれた。しかし、十五農協の中には「農協ブランドで」販売戦略を進めてきた作物が多いため、統一ブランド化には抵抗感も強かった。平成五年八月、三ヶ日町農協は合併への参加を見送ることを正式に決定した。なぜなら、特産のミカンで独自のブランドを確立し、安定した経営を続けてきたことが、統一ブランド化によって失われることへの危惧があったからにほかならない。
【JAとぴあ浜松】
平成六年二月、三ヶ日町農協を除く十四農協は、新農協の名称を「JAとぴあ浜松」と内定した。この名称は「未来を見つめ、フレッシュなセンスで時代をリードするJA」という新農協のコンセプトに対して寄せられた応募の中から選ばれた。同年三月には十四農協の合併予備契約調印式が行われ、八月にはそれぞれの農協において、臨時総会が開かれ合併を正式に承認した。これにより国内最大規模の農協が誕生し、平成七年四月からスタートすることになった(図4―29参照)。新農協の正式名称はとぴあ浜松農業協同組合で、本店は市内有玉南町に置き、三市五町をそれぞれの地区に分け、統括する支店を地区支店とした。十四農協を合わせた組合員数は六万二千二百十人、貯金高は六千五百三億円、共済保有高は三兆六百八億円、購買事業供給高は二百七十三億円、農産物販売高は三百三十六億円になり全国最大規模の農協になった(『静岡新聞』平成七年四月三日付)。
図4-29 14農協の合併によるJAとぴあ浜松と三ヶ日町農協