[食糧法と新農基法の成立]

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【食糧法】
 平成七年十一月、昭和十七年から半世紀以上続いてきた食糧管理法(以下、食管法)が廃止になり、主要食糧の需給及び価格の安定に関する法律(以下、食糧法)がスタートした。食糧法では備蓄米とMA米だけが政府管理で、農家は出荷数量を食糧事務所に届けるだけで直接消費者に販売でき、かつ単位農協も経済連を通さず卸・小売に販売できるようになった。
 
【自主流通米制度】
 もともと食管法は昭和十七年に制定されたが、戦後も継続され、食糧不足の下で主食である米を政府が管理統制することによって国民に安定的に供給する意図で運用されてきた。食管制度の下で、政府は農家から生産者米価で買い入れ、消費者へは消費者米価で売り渡すという二重価格制をとっていた。しかし、昭和四十年代前半頃になると過剰米問題が起こり、食管会計の赤字が累積していった。そのため、昭和四十四年から生産調整政策(減反政策)がとられると同時に、自主流通米制度が導入された。平成に入ると、政府管理米のうち自主流通米が大きな割合になり、さらに自由米(政府の認めた正規の流通ルートを通さない不正規流通米)が全体の三割を占めるようになっていった。そのため、米の全量管理を建前とした食管制度が流通実態に合わない制度になっていた。そこで、食糧法は米の全量管理から部分管理へ、さらに、従来の自由米を制度内に取り組み、農家が自由に米を販売できるようにした。つまり、この食糧法の狙いは①従来の不正規流通米を制度内に取り組むこと、②「生産調整における生産者の自主的判断」「農家の直接販売の拡大」などを導入することによって生産者の自由度を広げること、③米価の形成は、より需給を反映させることによって市場原理に委ねること、④米の集荷から小売りまでの流通規制を緩和し新規参入を進めることなど全体として管理から市場へ、規制から自由競争へ舵を切ったところにある。
 米をめぐる制度は食糧法によって大きく変わった。生産面においては、次々に新品種が登場し二百種を超える品種が市場に出回っていると言われている。その結果、産地間の競争が熾烈になり、農協間の競争が激しくなった。消費面においては、さらに大きな変化が生まれてきた。多様な販売先や販売方法が模索され、フードチェーンなどの外食産業が米市場で大きな力を持つようになってきた。
 
【新農基法】
 一方、農業の憲法と言われてきた農業基本法(以下、旧農基法)に代わって、平成十一年七月、食料・農業・農村基本法(以下、新農基法)が制定された。昭和三十六年に制定された旧農基法は、食料不足の解消と農工間の生産性・所得格差の是正を目的に農業生産の拡大を目指した。これに対して、新農基法では、国民への食料供給という視点が加わり、食料自給率の目標が盛り込まれた。さらに、農業・農村の多面的機能の発揮や多様な担い手の確保などを盛り込むことによって、食料・農業・農村全体の方向性を示したところに特徴がある。食料の分野では食料自給率の目標設定を掲げ、農業の分野では①意欲のある多様な担い手を確保・育成する(株式会社などの参入も認める)、②市場原理を重視した価格形成を実現する、③主要農産物の生産努力目標を策定するなどの目標を掲げている。さらに、農村の分野では、①住みよい農村空間を創造するために総合的整備を行う、②都市及びその周辺での農業を振興する、③中山間地域への対策として直接支払い(デカップリング)(デカップリングとは農業保護政策と所得補償を切り離し、農家に対して直接所得保障をする政策)を導入する、④農業生産における環境機能に着目した政策をとるといった振興策を掲げた。
 新農基法で掲げた、様々な目標や振興策は実現の可能性があるのだろうか。第一に、食料自給率向上の目標設定は難しい。カロリーベースでの食料自給率は、昭和三十五年の七十九%から平成十一年の四十%まで減少してきた。特に、畜産物は大部分を輸入飼料に依存しており自給率(カロリーベース)から見ると十七%に過ぎない。また、わが国における耕地の拡大の可能性は極めて低い。このように低い自給率を欧米並みに引き上げることは不可能に近いと言わざるを得ないだろう。
 第二に、農業経営の主体に株式会社などの参入を認めることの是非である。農業は、単に商品としての農産物を生産している訳ではない。農業とは集落・土地・自然との共生による総合産業であり、基本的に市場経済と相いれない側面を多く持っている。