[平成不況と市民生活]

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【地価下落 バブル崩壊】
 平成二年の正月、それまで堅調に推移していた株価がずるずると下げ続け出した。また、国土庁は平成四年七月に各都道府県が調査した基準地価(全国平均地価)でこの一年間に住宅地が三・八%、商業地が四・九%とそれぞれ下がり、調査を開始した昭和五十年以来初めての下落に転じたことを九月に発表した。バブル経済の崩壊で始まった地価の下落傾向は、平成四年春の地価公示でも確認されていたが、七月の調査でもその定着が裏付けられたと、『静岡新聞』同年九月二十二日付の記事が報じた。市内でも山手町や広沢二丁目の住宅地の地価が前年比、それぞれ十三・八%と十二・四%と、三大都市圏の平均下落率の十四・九%に近い下落率であった。株と土地の投機にはまり込んでいた人々にとっては、悪夢のようなバブル崩壊となっていったが、崩壊は静かに始まっていった。投機的な土地取り引きは沈静化しつつあったので、産業界からは政府が始めた土地税制の緩和を求める声が出されていたが、この記事では、国土庁は「『サラリーマンが年収の五倍で住宅を取得できる地価水準より、まだ二割強高い』として、引き続き土地取引の適正化を指導する方針」であると伝えていた。
 
【平成不況】
 平成四年八月、ハローワーク浜松(浜松職安)は、中学生と高校生(平成五年三月卒業予定の新規学卒者)への求人が平成元年以来、初めて減少に転じ、二、三年前の求人水準になったと発表した(『静岡新聞』平成四年八月十五日付)。景気の減速は地価だけでなく雇用状況にも大きな変化をもたらしていった。また、遠州地方の民間企業百七十組合の夏季のボーナスは、建設業で昨年より二万七千円余り下回ったり、平均妥結月数は〇・〇四ポイント減となった。これは平成元年以降では初めての減少であった(『静岡新聞』平成四年八月十三日付)。
 
【リストラ】
 浜松市民は、平成三年頃から企業によるリストラ、雇用調整、工場閉鎖などのニュースを新聞やテレビで見聞きするようになっていった。遠鉄グループの社内報(平成六年一月発行)は、仕事の中で不況を実感するのはどんな時かというアンケート調査の結果を取り上げているが、それにはスキーツアー参加者の減少、新車買い替えサイクルが長くなったこと、残業がなくなって定時に帰路につく姿を多く見る、などを載せている(遠鉄グループ社内報『えんてつ』№279)。市民はお酒を飲む回数を減らしたり、外食を少なくしたり、耐久消費財の買い替えを控えたり、旅行などの娯楽費の支出を切り詰めたりして生活防衛に動き出していった。また、このアンケートで興味深いのは「平成不況はいつまで続くか」との問いには、早い人は平成六年、遅い人は平成八年と答えていたが、日銀によると平成不況が終わったのは平成十四年頃としている。失われた十年という言葉が生まれたように、現実には遠鉄グループの社員の予想よりもはるかに長い不況であった。
 この長い不況の中での市民生活の状況を示すものが図4―32である。バブル経済の好景気の時期とほぼ重なる昭和五十九年度から平成四年度までは、市内の保護人員は二千二百七十八人から千百八十人になり、約五十二%に減少していた。また、保護世帯数も千二百六十五世帯から八百六十二世帯になり、約六十八%に減少していた。ところが、バブル経済が崩壊して長い不況の続く時期とほぼ重なる平成四年から平成十六年までは、保護人員は三千三百十三人となり、約二・八倍に増加した。これは経済の高度成長が始まる昭和三十二年の頃の人数と一致していた。また、保護世帯数も二千三百九十世帯となり、これも約二・八倍であった。なお、昭和三十二年の保護世帯数は千百十九世帯であり、これと比べると平成十六年の保護世帯数は約二・一倍となっており、保護世帯の核家族化または二人ないし単身での生活者の増加がうかがえる。

図4-32 浜松市の保護世帯数・人員の推移