【ブラジル人 ペルー人 ニューカマー】
平成元年三月末、浜松市在住のブラジル人は百四十六人、ペルー人は八人であった。翌二年三月末にはブラジル人は千四百五十七人、ペルー人は十七人となった。それが平成三年三月末、四年三月末では、ブラジル人は四千七十二人、六千百三十二人と激増し、ペルー人は三百十二人、八百三十六人と増えていった。平成十六年三月末には、ブラジル人は一万三千二百七十人に、ペルー人は千五百七十六人になった。南米人(在日韓国朝鮮籍等の以前からの在住外国人をオールドカマーということに対して、ニューカマーと呼ばれていた)の中でも圧倒的にブラジル人の増加が顕著であった。しかし、平成五年・六年はバブル経済崩壊後の不況の影響を受け、平成十一年は金融不安の影響もあって、ブラジル人は、それぞれ増加数の足踏みや減少が見られたが、それ以外の時期は、毎年千人程の増加があった(『新編史料編六』 一政治 史料43参照)。このような日系南米人の集住は浜松市のほか、湖西市や愛知県の豊橋市、さらに群馬県の太田市や大泉町でも顕著であった。
【入管法】
これらの自治体は、製造業の盛んな地域であり、昭和五十年代後半から六十年代にかけて好景気の中で、単純労働力不足が深刻化していた。この頃、ブラジルでは極度のインフレと通貨の不安定化が進行し、経済状況が悪化していた。そこで「日系人コミュニティーのなかでも相対的に低い階層に属する者のなかには、日本へ出稼ぎ」に出るものが現れた。「当時は闇ドル市場が存在していたため、日本で1年間出稼ぎしてブラジルで家を新築できた例もあったという」(池上重弘編著『ブラジル人と国際化する地域社会 居住・教育・医療』平成十三年刊)。日系一世は日本国籍も持っているので、日本での単純労働も可能であったが、日本国籍を持っていない二世・三世は、単純労働を目的とした外国人労働者の受け入れを認めない日本政府の方針の下では資格外就労者として扱われていた。しかし、平成二年六月に出入国管理及び難民認定法(以下、入管法)が改正され、日系三世に定住者ビザを付与することで、三世までの日系人とその家族の就労制限がなくなり、結果としていわゆる単純労働にも就くことが可能となった。そこで、日本の雇用主側からの需要が高まり、同時に、経済的な苦境を脱するためにブラジルをはじめ南米諸国から来日する労働者が急増していった。