【ホームレス グルッポ・エスペランサ】
終戦直後、浜松でも乞食と呼ばれた人たちが神社などの縁の下で生活していた。しかし、経済の復興とともにその姿は消えていった。ところが平成の不況が長く続くと、失業して経済的に苦しくなって住む家を失い、浜松駅周辺や地下道、公園などで野宿生活をするホームレスと呼ばれる人々が出てきた(『新編史料編六』 七社会 史料30)。平成七年十一月には浜松駅周辺に推定約八十人がいた。ほとんどは日本人であったが、少数の日系南米人も混じっていた。カトリック浜松教会の日系ブラジル人の比嘉エバリスト神父が代表を務めるホームレス支援団体「グルッポ・エスペランサ」(希望のグループの意味)が平成七年春、ブラジル人やペルー人約四十人と日本人四人で結成され、毎週月・土曜の二回、食事をサービスし、さらに寝袋、毛布、衣類などの支給も始めた。比嘉は同団体の結成の二年前に来日し「金持ちの国に路上生活者がいる。信じられなかった」「もっとびっくりしたのは手を差し伸べる人がだれもいないことでした。」と語った(『読売新聞』平成七年十一月十二日付)。
浜松市は平成七年五月と十一月初め浜松駅前でホームレスの実態調査を行い、健康がすぐれないお年寄りを病院に収容したケースもあった。比嘉によると、平成六年から八年二月までに計七人の路上生活者が公園で息を引き取っていたという(『静岡新聞』平成八年二月十七日付)。比嘉らはホームレスの援護策を求める陳情書を市長・市議会議長に提出した。社会福祉部は実態調査を出来るだけするとしたものの、食事・衣類の支給は困難とした。また、同部は「病気、障害を持つ高齢者らを中心に生活保護法を適用していく」とし、市議会厚生保健委員会は陳情書を不採択とした(『静岡新聞』平成八年二月二十日・二十二日付)。同年十一月市公園管理事務所は住民の苦情もあって路上生活者に段ボールなど身の回り品の撤去を求める警告書を張り出したが、グルッポ・エスペランサは本格的な冬を控えた時期の撤去中止を訴えていた(『静岡新聞』平成八年十一月二十八日付)。
【SAN人権パトロール】
なお、市内には平成六年二月から、毎週水曜日夜、市中心部の遠鉄高架下やJR浜松駅南の新川沿いなどを巡回し、食料やカイロなどの支給を続けているSAN人権パトロール(代表・髙木健)があった。この支援団体は、路上生活者の実態や支援の有り様、当事者の声などを、平成八年十月から「浜松路上通信」という冊子を隔月で発行し、都市の人権問題として問題提起を始めた。SAN人権パトロールが市側に申し込んでいた話し合いが平成九年五月九日市福祉文化会館で行われ、出席した路上生活者の六十代の女性からは「おふろに行ったら入れないと言われた。学生に植木鉢をぶつけられたり、けられたりしたこともある。」「私は何も悪いことをしていない。好きでこんな生活をしているわけではない」と涙交じりで訴えた。かつてホームレスであった男性は「皆仕事さえあれば何でもやると思っているが、住所がないのがネック。一人でも多くの人に働く場所を提供してほしい」と社会復帰の難しさと行政の手助けの必要性を指摘していた(『静岡新聞』平成九年五月十日付)。
その後、平成十年には新川南駐車場下で外国人を含むホームレスが増加していたことから、海老塚自治会とグルッポ・エスペランサが解決に向かって討論をした(『静岡新聞』平成十年七月二十八日付)。また、同十二年から翌年にかけて、田町の市営駐輪場の路上生活者への市からの退去勧告に対して支援団体「マイス・ウニダス・エスペランサ(もっと一緒に希望の意味)」(浜松市)と「野宿者のための静岡パトロール」(静岡市)は、排除や所有物の撤去中止と住居などの最低生活の保証の実施を要求していた(『静岡新聞』平成十二年九月十四日付)。ホームレスの増加が深刻化した中、厚生労働省は平成十三年九月末に全国四百二十市区町村でホームレスの調査を実施、その数が二万四千九十人であることを発表した。この時点での浜松市のホームレスは百五十人、中核市や県庁所在地別では堺市の二百五十人、豊橋市の百七十七人などに続いて多い方に入っていた(『静岡新聞』平成十三年十二月六日付)。
【ホームレスの自立支援】
平成十四年八月にホームレスの自立の支援等に関する特別措置法が施行されたのに伴い、浜松市は九月から自立支援のために行う手順を決めた。具体的には、自立意思の確認後、生活保護申請、宿泊施設入所、住民登録という手順であった。なお、この時点でのホームレスの数は百十人であった(『静岡新聞』平成十四年九月十九日付)。このような対策と平成十五年頃からの景気回復に伴って、浜松市ではホームレスを見掛けることは減っていった。