労働運動の再編

1102 ~ 1103 / 1229ページ
【連合 全労連】
 昭和六十年代から平成初年にかけて、労働戦線の全国的な再編成が大きく進んだ。民間企業労組を主体とし労使協調を指向する同盟(全日本労働総同盟)が中心になって労働組合全体を再編成し統一体を作る運動が昭和五十年代後半から進み、昭和六十二年十一月、同盟と中立労連(中立労働組合連絡会議)がそれぞれ解散し、五十五の産業別労働組合、組合員五百三十九万人を集めた連合(全日本民間労働組合連合会)が発足した。新産別(全国産業別労働組合連合)は昭和六十三年十月に解散、総評(日本労働組合総評議会)も平成元年十一月に解散した。これを受けて、平成元年十一月二十一日に日本労働組合総連合会(連合)の結成大会が開かれた。このような動きに対して、資本からの独立、政党からの独立、共通の要求での行動の統一という三つの原則を方針とし、総評の連合への合流を批判する労組が集まり平成元年十一月二十一日に全労連(全国労働組合総連合)を結成した。
 
【連合静岡浜松地域協議会 遠労会議解散】
 これら中央での動きを受けて、静岡県の労働運動も再編の動きが出てきた。平成元年十二月には連合静岡(日本労働組合総連合会静岡県連合会)が結成され、翌年にはこれらの支部とも言うべき九つの地域協議会が出来た。このうち、浜松市と磐田市の一部は浜松地域協議会となった。このような動きの中で、戦後、遠州地方で労働運動の一翼を担ってきた旧総評系の遠労会議(遠州地方労働組合会議)は、平成四年三月に解散し、連合静岡浜松地域協議会に引き継がれることになった。しかし、この動きに批判的な全労連系などの一部労組は、同年三月に西部地区労連(静岡県西部地区労働組合連合)を結成することになった(『新編史料編六』 七社会 史料74)。このような旧総評系の労組が連合系と全労連系に分裂する動きは浜松市職員組合でも起こり、これまでの浜松市職員組合が平成元年に反連合系の全労連に加盟すると、連合系の職員は平成二年六月に浜松市職員労働組合を結成した(『静岡新聞』平成二年六月二十二日付)。