【労働者派遣】
昭和六十一年七月に施行された労働者派遣法では派遣が許されていたのは専門的な十三業務だけだった。入管法改正の後に、新たに日本に来た日系南米人は直接雇用の形態での就労はごく少数であり、その多くは派遣会社に雇用されていた。当時の法の下では単純労働従事者を派遣することは禁じられていた。そこで、南米人は派遣会社の社員になり、労働者派遣会社が工場内のラインの一部を借りて生産を請け負う形での契約となり、工場で単純労働に従事するようになっていった。請け負いを出した会社はそこで働いている労働者に賃金を支払うのではなく、そこでの生産品に対して請け負った会社に対価が支払われるという形態をとった。しかし、実際には、生産ラインの業務の指揮命令は派遣会社のスタッフである社員ではなく、請け負わせた会社の社員がしていた。そのため、実際には違法操業であった。仕事中に事故が起きた場合、労災の認定に関して労働基準監督署が介入してくると、単純労働へ派遣をしていることが発覚し、摘発されることにもつながったのである。そこで、事故が起きた場合、できるだけ労災という形で処理したくないという思惑が請け負い側でも請け負わせた側でもあって、小さな労働災害は労基署に報告しないようになっていた(渡辺雅子「日系ブラジル人の雇用をめぐる問題」、『共同研究 出稼ぎ日系ブラジル人』上 論文編 平成七年十月刊)。このような日系南米人労働者は、雇用期間が限定されている期間工であるため、不景気の場合などで契約の期間が過ぎたら雇用しない(雇い止め)こととし、労働者の数を減らすことが容易に出来た。
【非正規労働者の増加】
労働者派遣法は平成八年、同十一年に改正されて、派遣対象業務は原則自由化され、平成十六年からは製造業の派遣も解禁となった。このことは、請け負い労働という形をとらなくても堂々と派遣労働をすることが出来るようになったことを意味していた。これらのことは日本人も同様で、多くの人たちが派遣労働者となっていった。中には、高卒者が企業の正社員でなく、派遣会社に採用されるというケースも出てきた。バブル経済の崩壊後の平成不況においてはコスト削減が大きな課題となり、非正規の労働者の雇用が多くなった。この中にはパート、アルバイト、期間工などの契約社員と既述の派遣労働者などがあった。これらの非正規労働者は給与、退職金、ボーナス、福利厚生などの面で正規の社員と大きな差があり、また、雇用の不安定、昇進や能力開発などの機会に乏しいことなど、数多くの問題点が指摘されるようになった。これらの非正規労働者の割合は平成十五年には若者や中年層でも二割五分から三割にも及ぶようになった。これに対し、労働組合や企業、多くの団体などがその対応に乗り出し始めた。平成十四年、各地にできた個人加盟の労組の全国組織として、連合に加盟する全国コミュニティ・ユニオン連合会(全国ユニオン)が結成された。県西部地域でも、平成十五年、個人加盟の地域労組としてJMIU静岡西部地域支部が十四人で発足し、労災認定等の相談活動などを通して半年で組合員を倍加させ、日系ブラジル人を含めた非正規労働者の待遇改善の活動を開始した(『西部地区労連20年のあゆみ』)。なお、同支部は平成十七年には日系ブラジル人組合員(六十人)の要望を受け、社会保険非加入企業への規制強化、緊急対策として国民健康保険加入の弾力的運用、さらに日本とブラジルの年金・保険の国際協定の締結を求めた(中安俊文「社会保険非加入の違法企業への規制強化は急務」、『金属労働研究』平成十七年十二月刊)。その後、同支部は厚労省やブラジル大使館との交渉を進めていった。この両国の社会保障協定は平成二十三年十二月に署名され、平成十三年の外国人集住都市会議の提言の一部が実現されることになった(「へるすの会ニュースレター」172号、平成二十四年六月発行)。