【放課後児童会 学童保育】
「カギッ子」(留守家庭児童)が増えてきたことに対応して浜松市は昭和四十二年から、公民館や小学校に小学校一~三年生の子供を預かる留守家庭児童会や児童育成クラブ・児童健全育成教室などの名称の公設民営の学童保育(昭和五十年代後半に、市はこれらを放課後児童会と言うようにした)を順次開設していった。昭和五十四年には六カ所であったが、同五十六年には十七カ所に、平成四年には四十一カ所になったものの平成十年までは増えることはなかった。その後、市長が、全ての小学校の校区に放課後児童会をつくると語ったのを受けて、平成十六年四月には五十一カ所にまで増加した。この数は、市内の小学校数の約八割であった。このような放課後児童会の急増の背景には、共稼ぎ世帯の増加があった。ただ、保護者の希望は小学校六年生までの利用枠の拡大や終了時間の延長や子供の長期休業時の開設、開設時間の延長等であった。このため、平成十三年には終了時間を午後五時半から六時まで延長し、平成十五年度からは夏休みの開設日の大幅な増加と冬休みと春休みの開設も始め、さらに開設時間も一日七時間から十時間にまで延長した(『静岡新聞』平成十五年六月二十八日付)。このような市の放課後児童健全育成事業ではなく、民間の学童保育所も昭和五十四年には入野町の若草児童会など四園があり、次第に増えていった。
なお、市民団体の子どもの放課後を考える会は、平成十五年六月三十日に学童保育の改善を求める要望書を市長・市議会議長宛てに提出した。それには希望児童が全員、放課後児童会に入れるようにとのことが記されていた(『静岡新聞』平成十五年七月一日付)。
学童保育をめぐる行政と保護者たちの取り組みが活発になっていく中で、知的障害者の学童保育は行政サービスのはざまにあった。そこで、保護者たちは様々な手探りの活動を進めていった。それらの運動の一つの成果として、平成十四年に中沢町に障害児の学童保育を行う、地域生活支援の家アット・ホームが開設された。これは、「自分だけでは外で遊ぶことができない知的障害者が家庭に引きこもりがちになる」ことを改善し、さらに地域住民との交流活動を進めていくため、保護者たちの手探りの活動が実ったものであった。二人の常勤指導員と九人のボランティアによって平日は放課後から午後五時半まで、土曜日は午前九時から午後四時まで散歩や読書、工作などの活動をしていた(『静岡新聞』平成十四年五月三日付)。