[医薬分業の方針]

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 近世の俗語で医者の生態を言う時、薬九層倍と言い、薬価は暴利を生むと皮肉られていた。医者が患者に薬を処方し与えるという医薬同業の慣行は抜き難いものがあり、戦後までその影響は続いていた。
 医薬同業の慣行から脱して医薬分業へ完全に移行するには時間を要した。医療と製薬における知識と技術は補完しつつ進展し、資本主義経済が進展する過程で医療機器・製薬事業は産業社会の一翼を形成するに至った。このことは医師会・薬剤師会・産業界と政治権力との相互の距離が社会問題となるが、国民の側から見れば、社会保障制度の一環である健康保険制度と深く関係することになる。
 
【『日本の医療史』】
 医薬分業の歴史をたどる時、その原点は明治七年制定の医制(全七十六条)にある。これは医療および医学教育関係の全てにわたって政府が初めて制定した規則であり、東京・京都・大阪三府に布達した(酒井シヅ『日本の医療史』、昭和五十七年、東京書籍刊)。その第二十一条、第三十四条に医薬分業の原則が示された。明治十一年六月には医制が定めた医師の薬鋪兼業禁止の通達(同十七年四月、その解禁の訓令)があった。同二十二年には法律第十号、薬律(薬品営業並薬品取扱規則)の制定があり、その附則第四十三条において、医師が診療する患者の処方に限り薬剤を調合して販売授与することを認めた。
 このような事態に対して薬剤師から反発があり、医薬分業運動が始まった。明治二十四年十二月八日、第二回帝国議会に法律第十号附則第四十三条の改正案を提出したが、改正案上程予定日の十二月二十五日、議会は解散したので法案不成立となった。その後の同四十五年三月十六日の第二十八回帝国議会へ右の薬律改正案を提出したが、政府は医薬分業について法令をもって強制する意志はないという方針をとった(秋葉保次、中村健、西川隆、渡辺徹『医薬分業の歴史』二〇一二年、薬事日報社刊。山崎幹夫『薬と日本人』平成十一年、吉川弘文館刊)。
 
【医薬分業運動】
 右に記したことが原点となって、その後の長い医薬分業運動が展開する。戦後の昭和二十九年八月三十日付の『静岡新聞』に、静岡県医師会傘下の開業医千余人が八月二十九日に一日一斉に休診を敢行して静岡市に集合したことが報じられている。医薬分業はアメリカ占領政策の落とし子、日本の実情に添わず、伝統の美風の破壊と総括し、医薬分業に反対し、保険単価切り下げ反対を主張する宣言が採択された。その際に保険医総辞退も辞さない旨の発言もあったという。同年十一月、衆議院厚生委員会において、医系国会議員らによって提出された医薬分業法の改正案をめぐって検討された。その結果、同年十二月、昭和三十年一月一日の医薬分業法の施行時期を、昭和三十一年四月一日まで再延長するというものであった。その改正理由は、地方の医師会の調査によると薬局の処方箋受け入れの準備不足という。さらに昭和三十年七月の国会には、再び、「医師法、歯科医師法及び薬事法の一部を改正する法律の一部を改正する法律案」の議員立法による提出があり、同年七月二十九日に可決され、昭和三十一年四月一日に施行された。改正の内容は、医師法第二十二条の規定(医師の処方箋発行の義務)に八箇条からなる「但し書き」を追加規定するもので、医師の処方箋の院外発行は医師の判断に委ねられた(任意医薬分業法)。
 昭和三十一年四月一日から医薬分業は実施されたものの、医師側からする総括は「この法は実際にはないにも等しいようなザル法になった。これも医師会の努力によったものであった。」(『静岡県医師会二十年史』)という評価である。他方、日本薬剤師連盟、日本薬剤師会側は、「薬剤師の〝政治力の敗北〟」と受け止め、今後の苦闘は覚悟の上の医薬分業確立を目指すことになる(日本薬剤師連盟ホームページ、「医薬分業が辿ってきた道~その6~ 最終章」二〇〇九年一月)。