【岡田喜親 髙宮みさき HIV】
日本で初めてエイズが報告されたのは昭和六十年で、当初は感染したら死ぬ病気であった。しかし、平成八年頃に治療法が確立し、早期発見できれば治療法のある慢性疾患になった。その反面、死なない病気という誤解から予防意識が低下しているという。右に掲げた「HIVとAIDSは違います」という引用は、平成二十四年十一月二十二日付『静岡新聞 びぶれ』の健康欄で浜松医療センターの岡田喜親医師(メディカルバースセンター長)と髙宮みさき医師(感染症科)による啓発記事に根拠がある。これによれば、HIV(ヒト免疫不全ウイルス)とAIDS(後天性免疫不全症候群)とは定義が異なり、HIVに感染しただけではエイズ患者ではない。HIVが原因で悪性リンパ腫や結核など、指定された二十三の疾患を発症した場合に、エイズ患者と認定されるのである。HIV感染者は薬剤を服用しながら日常生活を送ることが出来るが、エイズ患者になると、適切な治療を受けない場合は二年程度で死亡するという。
右のような医療上の革新的展開が見られる以前、市内医療機関や浜松市保健所による様々なエイズに関する啓蒙活動が『静岡新聞』の記事に表れている。県衛生環境センターへの外注によるエイズ検査から浜松市保健所による独自検査の実施へ(平成四年十一月二十五日付)、エイズ予防対策の講演会(浜松医科大学)(平成五年三月十五日付)、文部省エイズ教育推進地域の指定(平成五年七月十五日付)、ストップ・エイズ・ポスター展(平成六年七月二十日付)、エイズウイルス走査電子顕微鏡写真などを展示した保健所展(平成六年八月五日付)、ストップ・エイズのイメージキャラクター作品公募の審査結果の発表(平成七年九月十五日付)、ジュビロ磐田の選手による街頭広報活動(平成七年十二月一日付)、ボランティア団体「フレンズ・フォー・ライフ」による浜松のエイズ患者支援の映画会・講座(平成八年十二月十一日付)、世界エイズデー(平成十一年十二月二日付)などである。
他方、社会的風潮については、県東部での血友病のエイズ感染者の盲腸手術拒否(昭和六十三年一月十日付)、県医師会によるエイズアンケートによれば、医療従事者への感染不安から県内病院の三分の二が、「診療、治療は不可能」という回答(平成五年五月十八日付)、エイズ治療技術・情報の共有化を一層促進させるために、県による県内のエイズ病院(浜松市内八病院)の公表(同八年五月二十一日付)、新生児出血症・劇症肝炎・肝硬変の入院患者に投与治療したことによるもの(同年十月二十二日付)、厚生省による非加熱血液製剤を購入・使用している病院の公表(同年十月三十日付)、「エイズセッション'98はままつ」で発表された東京のエイズ感染者のアパート入居拒否(同十年十一月二十九日付)などが見えている。
平成十年一月十八日付の『静岡新聞』記事に見える浜松市保健所が公表したエイズ検査十年の総括は注目に値する。浜松市保健所がエイズ検査を始めた昭和六十二年には、神戸市で日本人女性のエイズ患者が初めて死亡したことで、第一次エイズショックが起き、平成四年にはハワイ在住のエイズ患者が来日し、ホテル側が宿泊拒否をしたことで第二次エイズショックが起きた。この時期にはエイズ検査を受ける人が激増したが、その後は減少傾向をたどり、患者潜行という実態分析が公表されたのである。まさに先に見た岡田・髙宮両医師が指摘した状況である。
なお、平成二十五年三月六日付『朝日新聞』には一朗報が見える。米ジョンズホプキンス小児センターなどは、新生児のHIV感染患者を誕生直後から抗HIV薬で治療したところ、治癒したとみられると発表したという。この治療が普及するならば先の『広報はままつ』の懸念を払拭する時代の到来と言えよう。