自由律俳句

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【『層雲』 『随雲』】
 この時期の文芸界の動きについては、自由律俳句と散文分野を取り上げる。まず、自由律俳句である。『浜松市史』四 第三章第九節第一項で見た通り、自由律俳句と浜松とは深い関係にある。自由律の句誌『層雲』は、明治四十四年、河東碧梧桐と荻原井泉水が中心となって創刊され、後に碧梧桐が去って井泉水が主宰となる。無季・自由律を掲げ尾崎放哉や種田山頭火らを輩出した。この伝統ある句誌が、内紛により突然終刊となったのは平成四年八月のことである。その直後、『層雲』の会員であった三好草一(鳥取県倉吉市)・渡野辺朴愁(浜松市)らによって創刊された自由律の句誌が『随雲』である。会の代表には三好が就任。創刊号の奥付を見ると、発行所は三好方となっているが、編集室は浜松市の鶴田育久方とあり編集人も鶴田である。

図4-40 『層雲』復刊号(『随雲』100号)

 浜松はもともと自由律俳句の盛んなところで、井泉水もたびたび浜松に来ており門弟も多かった。前記渡野辺もその一人であった。彼は『層雲』の終刊後、荻原家にたびたび参上して『随雲』を『層雲』に改題して発行することを認めてもらうよう懇願し続けた。平成十二年十一月になって、井泉水の子息の荻原海一から、翌年の一月に『随雲』が一〇〇号を迎えるのを機会に『層雲』に復帰しては、との話があり、『随雲』は『層雲』を名乗ることを認められた。『随雲』一〇〇号の誌名は『層雲』とあり、さらに「随雲一〇〇号記念特集」「層雲復刊号」の文字が並記されている。この号には、各地の自由律の結社名が広告として掲載されているが、浜松では「松の会」の名があり三十二人の名が記されている。またこの号では、同人の投句欄のほかに二つの欄があって、選者として渡野辺朴愁と和久田登生の二人の名があるが、共に「松の会」の会員である。当時、自由律俳句の中心は浜松にあったということで、これは現在も変わっていないようである。『層雲』は平成二十一年現在、発行人和久田登生、編集人鶴田育久という体制で刊行されている。
 
【『寂光』】
 自由律の俳句についてもう一つ、永井治雄(明治四十一年、浜松生まれ)の阿良野社のことを取り上げておく。永井の自由律俳句歴は古く、遺句集『寂光』(平成十六年九月発行、阿良野社)巻末の年譜によれば、昭和三年のところに「加藤雪膓に教えを仰ぎ、『曠野』に加わる」とあり(加藤雪膓については『浜松市史』三 第四章第七節第四・五項に詳しい)、同八年のところに「一碧楼主宰の俳誌『海紅』に投句」とある。「曠野」は昭和七年の雪膓の急死によって解散していて、「海紅」への投句は、このことによると思われる。以後、永井は浜松地方の「海紅」による自由律俳句の中心となって活動を続ける。戦後は、昭和二十七年のところに「雪膓先生輪禍により急逝され跡絶えていた『曠野社』の火を消さぬようにと、鈴木青泉と共に『阿良野社』を起し主幹となる」とある。その後、浜松市発行の『労苑』の自由律俳句の部の選者、中日新聞社内の中日くらしの友の会の講師を務めるなど、自由律俳句の活動を意欲的に続けていたが、平成十五年に死去。没後、遺族の意向を受け、渥美ゆかりらを中心に、前記遺句集『寂光』が編まれ刊行された。『阿良野』は渥美ゆかりを中心に現在も続いている。永井の句を三句掲出しておく。
 
   雪膓死んでからの年月二の酉が来る
   子規の句碑濡らす時雨の松毬を拾ふ
   いかやうにも暮らせる独り身紫苑が咲く
 
 なお、永井は戦前は誠心高等女学校ほかにおいて、戦後は浜松市立高等学校において教師として、長らく教鞭を執っている。