浜松市石造文化財調査会(以下、調査会)の編集による二冊の報告書『浜松市の石造文化財』(A5判、三百四十五頁、以下『石造文化財』)と『浜松市石造文化財所在目録』(A4判、三百九十頁、以下『目録』)とが、浜松市教育委員会から発行されたのは平成十三年(二〇〇一)三月二十日のことである。この二つの冊子において、石造文化財とは何かについて特に定義付けはされていないが、おおよそ過去において先人の手により石を加工して造られた、文化的意味や価値を有する物と考えて良いと思われる。ただ、それらは石で造られているとはいえ、長い時間の経過により自然に風化されたり、あるいは特に現代においては土地開発などにより人の手によって破壊されたり消滅させられたりする恐れがあるものである。浜松市による調査の背景には、やがては消えてゆくかもしれないそうした石造文化財の調査を通して、先人の営為を知り地域の歴史を見直すことによって、今を生きる意味を探ろうとする意図があったものと想像される。平成七年度から十一年度までの五年間にわたって続けられ、二冊の報告書(平成十三年三月刊)にまとめられたこの調査を、静岡大学情報学部の許山秀樹教授は、『静岡大学 情報学研究』第14巻(平成二十一年三月刊)所載の論文「漢文で書かれた石碑と浜松の土地問題」の注の中で、「浜松市の石造文化財調査は、大きな石碑のみならず、人目につかない所に置かれた石造物まで調査されており、全国的にも類例の少ない充実した調査となっている」と評している。浜松市によりなされたこの大掛かりな文化的事業は、市民の間でいま一度見直され高く評価されるべき内容を含んでいる。
図4-49 『浜松市の石造文化財』
調査会会長の根本重里は『石造文化財』巻頭の「あいさつ」の中で、「語り部」は一般的に口承伝承に携わっていた人たちの代名詞であり、世紀末に浜松市の石造文化財を調査し、それを二十一世紀に伝えようという自分たちも「語り部」に似ているとの主旨を述べている。これによれば、当時二十世紀から二十一世紀に変わるという時代の大きな節目にあったということが、この事業を始める動機の一つであったと見られる。根本は、さらに「調査を終えて今考えられることは、石造物もまた『語り部』であるということです。」とも記している。
『石造文化財』をひも解くと、この事業が実に周到に準備され実行に移されていることがうかがわれる。序章の「浜松市石造文化財調査会の歩み」を見ると、当時の浜松市教育委員会の社会教育課と生涯学習センター、図書館および博物館の四課からなる石造文化財調査連絡会が組織されたのが平成五年四月である。ここで調査方法などが検討され次の六つの結論を得た。
①市民で組織された調査会が調査にあたる。②調査期間は五年とする。③浜松市内を五地区に分ける。五地区をさらに五ないし六の単位に細分する。各単位は一ないし二公民館エリアを以てあてる。④調査記録は図書館等で保管して市民の歴史学習の資料として活用する。⑤調査成果は報告書として刊行する。⑥調査会の発足に先立って、調査を担うことのできる人材の育成をはかる。
人材育成のために「石造文化財の学習会」が始まったのが平成六年四月。学習会は平成七年四月まで月に一回のペースで開かれた。こうして同年六月、調査会の発足となる。発足当時の会員数は、学習会の受講者のほかに新たに募集した者を含めて百十五名。調査など諸活動を始めるに当たっては中央地区部会(中部公民館以下五公民館の各エリアをもって組織)以下五部会が組織された。会の発足した平成七年度は、まず次年度以降の調査計画を立てるための基礎データを得るために全地区で一斉に所在確認調査を実施。これに基づいて寺院・仏堂の石造文化財、神社の石造文化財、記念碑、路傍の石造文化財の調査が順次実施された。調査は一件ごとに調査個票を作成し、実測図や聞き取りで得た情報を書き込むという方法で行われ、さらに写真撮影をし可能なものは拓本が採られた。報告書の刊行準備に取り掛かったのは平成十一年度で、編集委員会が作られ前記の二つの報告書が完成した。一つが『石造文化財』で、調査成果を広く市民に普及することを目的とし地区ごとの会員が執筆に当たった。もう一つが調査個票を基にした詳細な『目録』である。
先に記した調査個票と写真、拓本は浜松市立中央図書館に保管されており、市民はいつでも活用することが出来る。