(井伊家伝記 上 画像29 左側2行目) 小野但馬井伊保を押領并 此所二字下ヶ可有也
権現様より井伊保三人衆を被遣候事
一小野但馬井伊谷押領仕候訳者永禄十一年今川氏真より
信玄防戦之為井伊谷之人数召連参向可致旨其上
直政公可奉失旨小野但馬承之旨於井伊谷申触心儘ニ
相斗押領仕候祐椿尼公 直盛公後室 次郎法師 直盛公息女
直政公養母なり
井伊谷城内ニ被成御座候事難成故龍潭寺中松岳院と
申小庵ニ御引越住庵被成候右松岳院ハ祐椿尼公之
菩提所也天正六戊寅七月十五日ニ御遠行御法名松
(井伊家伝記 上 画像30) 岳院寿窓祐椿大姉次郎法師天正十壬午八月廿
六日御遠行法名妙雲院殿月船裕円大姉扨又
権現様於三州岡崎小野但馬井伊保を押領致候而直政公
御立退被成候段御聞及則近藤平右衛門鈴木三郎太夫菅沼
次郎右衛門 是を井伊谷三人衆と云 右三人衆を被遣候而井伊谷を御乗取被
成候右三人衆三州宇利より進発山越ニ遠州頓幕山越奥
山之郷江入候て三人衆人数鬨之声を揚に防き戦者一人
も無之故直に井伊保之城を取巻所に小野但馬防戦
難成井伊谷を立退き近辺に忍ひ居申候所永緑十二年
四月七日ニ 権現様堀川城責之節御仕置ニ被 仰付候其
罪科者 権現様江御内通仕候井伊直親傷害ハ但馬讒言
其後段々直政公を可奉失相巧申候故隠謀重科にて則
井伊保ニ獄門に御掛被成候但馬子弐人有之同年五月
七日ニ御吟味被遊候て弐人共ニ又々御仕置ニ被仰付候