(井伊家伝記 下 画像8 右側七行目) 直政公秀吉公之実母大政所警固之事
一天正拾弐年春より秋之末秀吉公信雄権現様尾州
濃州所々之対陣取乱候事勝負相決し不申候故因
茲秀吉公和談相調十一月十六日石川伯耆守を以
和談相調候御悦を被仰入候三州岡崎江御帰陣なり
右之和談之人質ニ秀吉公実母大政所三州岡崎へ
被遣候事同十三年 権現様御上洛相極直政公当時
之安危ハ当城にて大政所を厳守するに相極旨具ニ
令言上之所ニ直政公御年若にハ候得共軍法ハ老臣に
相勝旨御上意にて御感不斜候依之上洛之御留守
大政所警固之人思召相定不申候所に右之旨被
仰上候故直政公御心底を御安堵被遊岡崎之留守大
政所之警固に被仰付本田作左衛門重次を直政公
下奉行ニ被仰付候而 権現様御安堵ニ而御上洛被遊候
(井伊家伝記 下 画像9) 直政公本田作左衛門大政所を厳重ニ勤番大政所を
取籠申候屋形を取廻シ薪を積置若変事も有之
時ハ放火可致支度に被成候然共大政所を朝夕に
御念頃被遊候事ハ格別之思召故大政所も御安気
にて御暮し被成候 権現様岡崎御帰城之上にて
大政所帰洛に相究直政公御送被成上洛之所に
秀吉公御悦種々恩賜有之其上御馳走有之節
秀吉公石川数正に地走等之事被仰付候所ニ直政公
石川数正に対し無興也其訳ハ石川ハ元来者
家康公譜代に候を相背き秀吉公江出仕申候事を
本意に無之事と思召候故無興也直政公節義を相
感者也