[明治13年]

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 自分は明治13年2月8日、貞一郎の長男として生まれた。幼少の頃は病弱で成人も危ぶまれたので、木曽御嶽神社に祈願をかけてあったので、15歳の時にお礼参りに村の行者と共に登山した。そのころは三河路を経て徒歩で往復1週間余を要したものだ。
 
 その頃の校舎は洋風建物で、大歳神社境内の東南部にあった。7歳で下堀尋常小学校に入学した。月謝は自由で、宅では10銭ぐらい出したと思う。藤の饅頭笠をかぶって通学したものだ。
 
 高等小学校は浜松の城内にあり、入学したのは11歳で毎日往復3里(12㎞)余を通うので、遅刻することが多く、よく"かくれ休み"をしたものだ。途中で弁当をつかって帰った。春花咲く頃に、佐藤堤(現在の佐藤町)の紫雲英田や中沢の百段上の三方原等で"かくれ休み"をしたものだ。そのころの三方原は小松原でつつじも咲き、山うさぎやきじも多くいたものだ。うさぎを追い回して石を投げたり、足もとから鳴いて飛び立つきじに驚かされたりして、遊びくたびれると草原にあおむけに寝ころんで、両腕を枕にして春の陽を浴びながらあげ雲雀を聞いていた時の楽しかったことは今でも忘られぬ。
 
 このようなことがたたってついに高等小学1年で落第した。その成績が発表されたのは彼岸の中日で、母が近所の婦人たちと鴨江の観音様へお参りにこられたのといっしょになり、母に成績を聞かれた時には困った。それで宅に帰るのがつらく、途中で時を過ごし、雀の児をとり、懐に入れて夕方宅に帰ると、父に厳しく叱られたので、そのまま泣き寝入をしたものとみえ、あくる日の朝起きて帯を解くと懐から雀が死んで落ちたことをいまだに覚えている。
 
 宅では苗を囲碁型に通り良く植えるために、縄を張ってその位置を決める。縄張りの手伝いを子供もすることになっていたが、それを避けて胃袋(安間の川の名)に魚釣りに行き、水泳をして快い気持ちになり、帰宅して昼食をとっていると父が田植えより帰ってきてしかられた。それで家より飛び出して逃げると抜刀を持った父が追い掛け、宅から約3丁隔たった安間川の悪水の近くまで逃げてついに捕まり裏の梨の樹に縛られて木で打たれた。その頃父は若くもあり、短気であったから思い切って打った。
 
 その頃の自分は学校で学んだことの復習など一度もしたことはなく、教科書や石盤、そろばん等いっさいの学用品をつめこんだ重いズックのかばんを肩にかけて学校にいき、帰ると台所の北側にかけてすぐ飛び出し、一日中遊びくらして帰り、復習など一度もしたことはなく、翌朝それを持って通うのみであるから学校の時間割の必要もなかった。
 
 ある先生が教室で自分の側を通る時に「枯木も山のにぎやかさ」と独語したことを覚えている。よほど自分はできなかったものと思われる。
 
 しかし、体は丈夫で力は強く、そのころ学校では"首切り"という遊びが流行したが、自分はつねに一方の主将となった。当時の強敵は、橋羽の金原長太郎と浜松菅原町の石屋の倅(せがれ)であった。いずれにしても当時は生徒間の相当なボスであったらしい。ある日、当時自分の級の首席の男(名は忘れたが)が落とした紙片を拾ってみると、それはその男の日曜日に勉強する時間割であった。世の中にはこのように勉強する人もあるのかと驚いた。参考にそれを写して自分の机の前の障子の桟にはって自分もそのまねをしてみた。それよりおいおい勉強が面白くなり、15歳の時浜松に中学校ができて入学したがその翌年、当時は中学2年は2級にわかれ1級約50人で自分は2組の首席になったことを覚えている。
 
 明治30年1月に英照皇太后が崩御せられ、2月に霊枢は浜松駅を通過して京都の湧泉寺(ママ)に向かわれることとなり、我々中学生もこれを御送迎申し上げた。それは雪の降る寒い夜中で寒風にさらされて長く立っていたので、肺炎にかかり生死の間を彷徨したが、幸い全快した。その後は運動を主として、昼は柔道、夜は剣道の稽古に通い、充分身体を鍛えたので健康は回復し、その後は一度も病気もせず、成績は常に3~4番であった。
 
 中学は卒業せしものの、その後の方針については、父は長男が家を離れて居住することには気が進まず、師範学校へでも入学させ村の学校の先生でもさせたい意見であったが、母は本人の意見通りにさするがよろしからんと父にすすめてくれた。同村の伊藤茂君はその前年に第一高等学校(東京)に入学し、同級の高林善司(有玉)、榎谷岡之進(和田)両君は第三高等学校へ入学するとて、既に京都へ様子を見にいって来たという情勢であったからついに父も高等学校を受験することに同意した。もちろん自分の希望はその頃最も評判の良かった第一高等学校であったが、かつて東京に学んだ新村儀一郎叔父が脚気のため中途退学して帰省した例もあるので、最も安全と思わるる京都の第三高等学校を受験することにした。当時わが国には、東京の第一・仙台の第二・京都の第三・金沢の第四の四つの高等学校があった。何れも入学には競争試験があったが、第一が最もはげしく、第三がこれについだが幸い入学が出来た。