三高に入学したのは明治32年20歳の時であった。高等学校へ入学当時の志望学科は電気であったが、将来は必ず天竜川の水を利用して水力電気会社が建設さるるであろう。その場合、自分がその会社の技師になれば宅にも近く住むことが出来、父の心配も幾分少なくすることが出来ると思ったからである。しかるにその後電気技師よりも建築家の方が自営も出来、身の自由もきくことを知り中途より建築科に変更したのである。
在学中最初は下鴨の百姓家の座敷を間借りして自炊した。当時十畳で1ヵ月1円であったから学資は1ヵ月10円位で足りた。金銭にはかなり厳しい父からも送金の催促をしてきたこともあったほどである。御飯は間借りしている家の婆さんに炊いて貰い御添物は自分で煮ることにしていた。ある冬の寒い日に婆が東寺の御大師様へ参詣に行ったので留守中自分で雑炊を作ったが、野菜と御飯を同時に入れて煮たので御飯は焦げてても野菜は生で閉口したこともあった。時には学校帰りに今出川で20銭位で牛肉と葱を買い、手にさげ得意になって鴨川の堤を手を振り振り帰ってくると、葱の汁がベッタリ外套に付いて困ったこともあった。とにかく自炊だと偏食になりやすいのと学校の方もおいおい忙しくなったので2年からは寄宿舎に移った。
高等学校時代は別にこれという運動をしなかったが、皇太子殿下(大正天皇)が有栖川宮殿下と御来臨の時に数人と選ばれて器械体操をしたことを記憶している。つねに健康でほとんど病気したことはなく、たまに風邪にかかると校舎の周囲を何回ともなく駆け回って発汗させたり、冷水に浸した大手拭を頭に載せて長々湯につかり発汗させて治療するなど随分乱暴なことをしたものだ。冬休みで帰省する時はそのころの汽車の三等車には暖房がないので江州、ことに関ケ原辺は大変寒かったのでいつも夜具を着て平然と腰掛けていたものだが、今から思うと随分近所迷惑のことであったとふと思う。
その頃三高の付近は田畑が続き、紫雲英や菜の花が美しく咲き、秋は学校のすぐ近くの吉田山にも松茸狩りが行われ、茶店の旗が校庭からも見られた。帝大病院の西方鴨川との間は牧場で多くの牝牛が遊んでいたものだ。
自分が高等学校時代に妹とよせは安間家に嫁した。主人謙君が当時早稲田専門学校に在学中であったから、とよせは約1か年京都で種々修業した。いよいよ妹も業を終わって帰ることになったので、妹と一緒に方々見物した。それは夏の暑い日であったが、両人で相談して乗り物の代を倹約して氷を飲むことにした。その時妹が真っ赤な顔をして、汗を拭き拭き自分の後ろについてきたことを覚えている。