[明治35年]

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 東京帝国大学工学部建築科に入学したのは、明治35年7月、23歳の時であった。同級生は11人であった。講義は予期に反して極めて平凡なものであるのには失望した。しかし高等学校時代とは気分が違うので勉強したと見え、2年へ進んだ時には首席であった。
 
 遠州育英会から賞金を貰った。2学年の暑中休暇の実習は日光で愉快に過ごした。8月中旬に帰省して8月21日に妻を迎えた。自分は24歳で妻は19歳であった。(妻は二俣町鹿島、田代嘉平次の三女で長女は漢学者の内田周平に、二女いつは下堀の竹山純平に嫁していた。)竹山家と当方とは同村で隣家であったので、純平の養父謙三の斡旋によりこの縁組は成立したのである。当時は交通が不便であったので、鹿島の一行は舟で天竜川を中ノ町に下り、竹山邸で一息して、当方に来られたのである。その時は丁度鹿島の椎ケ脇神社の祭典当日であったので、鹿島を発つ時は見物人が多くきまりがわるかったとのことである。日露戦争は自分の在学中で、自分の髭は旅順陥落の記念である。日露平和条約が締結されたのは、明治38年9月で自分の大学卒業の年の秋である。世は大戦後の不景気で就職口は少なく、同期の卒業生は満州・朝鮮・樺太など海外に晩れて職に就いた。自分は種々の都合で籍を大学院に置き、辰野事務所に奉職することにした。