[明治38年]

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 その頃、辰野事務所は京橋区日吉町にあり、辰野・葛西両先生のほかに松井清足・久垣治助両君で、松本与作君は学生で給仕しながら仕事を手伝っていた。松井・久垣両君は既に仕事になれてよく間に合うが自分は学校出たてで、何の役にもたたないので辰野先生によく叱られたもので、事務所に行くのがいやになり、欠勤しがちで不愉快な日を続け、時には一層辞職して郷里に帰り百姓でもしようかと思ったことも度々あった。
 
 そのうちに、辰野事務所で第一銀行韓国総支店の設計を引き受けることになり、自分がその設計を担当することになった。これは、竹山純平兄が第一銀行に居た関係もあったと思う。とにかくこの設計を早く完了して厳しい辰野先生のもとを離れたい一心で、日曜日にも塀を越えて事務所に入り只一人設計に励んだものだ。そのため設計も早く存外良く出来たと見え、珍しく辰野先生にも褒められた。それで自分も愉快になり初めて明るい気分になった。人間は自分の仕事に精進すれば人にも満足をさせ、自分も仕事が面白くなるものだ。これが成功の秘訣であるとしみじみ感じた。