自分が初めて渡鮮したのは明治40年の秋であった。そのころの関釜連絡船は會下山丸とて小さな船でローリングが激しかったが、明日は鶏林の地を踏むかと思えば何となく雄心勃々として睡られないので、起きて甲板を徘徊すれば空は快く澄み渡って中秋の名月は中天に懸かり、船は粛々と玄海の波濤を蹴って進み、如何にも心地よく彼の蘇東波の赤壁の賦でも口吟せずにはいられなかった。そのうちに風も起こり波も高くなり、船のローリングが激しくなったので船室にもどって寝についた。
そのころ、釜山港には桟橋はなく、連絡船は沖に碇泊して、陸とは艀で連絡した。京城への汽車は草梁より発車するので、北上する旅客は草梁駅まで徒歩連絡をした。当時は釜山と草梁との間には大きな岩山があり、その坂道を越えて行くのであるから、風雨の時や連絡船が延着した場合には釜山に泊まって翌日出発する旅客も多かった。自分も釜山の大池旅館に一泊したように覚えている。
そのころの京城はまだ開けておらず、南大門通りと鐘路には瓦葺きの家もあったが、その他は藁葺きの陋屋で、道は狭く不潔で荒れるに任してあり、大便は屋側より溝に流し、小便は窓より道路へ捨てるので、横道などは安心して歩行も出来ない状態であった。これらの悪臭がオンドルを焚く煙と混じって市中は常に一種特有の悪臭に満たされていた。井戸水は汚水の浸透のためか一種の臭気があり塩分を含んでいた。たまたま山麓の岩間より湧出する少量の清水を見つけると薬水と称して皆珍重したものだ。外人コーブラウンはこれに着眼して、水道と電気の権利を韓国政府より獲得して、既に南大門通りと鐘路には電車を通していた。車体は開き放しの粗末なものであった。官衙銀行等には水道も引き電灯も点じ電話もつけていた。経済界に於ける支那人の勢力は偉大で南大門通りには支那の大きな綿布輸入商が軒を連ねて朝鮮人夜具用の白布の多くは彼らの手により輸入販売されていた。日本人は僅かに本町通り「チンコーカイ」に密集して、主として朝鮮土産や雑貨を販売しているに過ぎなかった。しかし金融界における第一銀行の信用は絶対で澁沢栄一の肖像のついた紙幣が流通していた。物価は安く、卵1個1銭位で、立派な葉巻洋煙草も10本入り一箱が20円位であったと記憶する。
元来、朝鮮には地権はなく、家権の売買のみが行われていたから、南山の麓の陋屋を買い勝手に囲いをして数千坪、数万坪を自分の屋敷とした人もあった。当時は大門通りや鐘路の如き目抜きの場所でも坪20円位から30円位の割りで売買された。第一銀行で韓国総支店を建築した時には百数十軒の朝鮮家を買潰したのであるが、最後に支那人所有の黒煉瓦二階建ての家を買った時の値が坪300円であったことは法外な高値であった。
最初、自分が京城に出張した時には、京城の第一銀行支店の支配人であった義兄竹山純平宅に泊まった。銀行の建築敷地には既に板囲も施してあり、東大門外より電車で建築用石材運搬の計画も出来ていた。
京城に数日滞在して、事務の打合せもすまし、多額の旅費を貰い得意になって下関に着くと、連絡船へ浅野セメント門司支店より支店長と販売主任が艀で迎えに来た。自分には何のことかわからず唯言わるるままに乗って行くと、その頃下関では春帆樓と並んで有名であった鎭海樓に案内されて大いに歓待された。何のために自分がかくも歓待されたのか分からないので、帰郷後竹山の兄に訊てみたら、笑って今に判るよと言われた。後年に至りこれが取引を円滑にする商売のこつだということがうなずかれた。
設計も完了して、夫を提えて渡鮮し、銀行より工務長の辞令を受けたのは、明治40年12月1日で、建築は、延坪3080坪の石造三階建でその頃としては大建築であった。
工事の最初は土工事と石工事であるが、元来土工と石工は職人中でも悪質の者が多く、現場監督を苦しめるのが常であった。当時自分は28歳の弱年で未だ現場監督の経験もないので、若し彼らに馬鹿にされたり、悪まれていたずらでもされるようなことがあっては、此の大工事を立派に完成することも覚束なく、辰野先生の嘱望にそむくことにもなり、尚自分の将来にも影響することであるから、職人を如何に統御すべきかにつき日夜心をくだいたものだ。孫子の兵法、六韜三略、陽明学派の哲学を研究したのもその頃である。
自分の赴任当時は丁度竹山姉が上京中であったから、妻子の同伴は姉に頼んで一人で渡鮮して竹山の宅に厄介になった。間もなく兄も上京したので自分が留守居をすることになった。
自分の下には現場主任として谷民蔵氏、その下に技術員数名、竹山兄が事務長兼務で、その下に島田房太郎氏がいて一切の事務を執った。何れも若く元気者であった。徒然に此の連中が夜遊びに来たので、酒食を供し元気にまかせて大騒ぎをして遊んだものとみえ竹山にあった菊正宗の一斗樽は空になり、襖も破りなどしたので後々迄も笑い話になった。
冬は凍って工事も出来ないので皆で積雪中相撲をしたり、夏はセメント樽を売った金の一部を貰って仁川で豪遊を試みたこともある。
全工事の請負は清水組であったが、土工事と石工事は野村組で下請をしていた。野村は小柄な男であったが才気もあり膽もすわっていたので今太閤と呼ばれ、その配下には四天王と称して命知らずの様な輩もいたので、工事の監督を厳重にすると所員の帰途を要して脅迫がましきことをすると聞いたから、自分が監視していると、不合格のコンクリート用砕石を満載した電車に野村自身が同乗して堂々と現場に乗り込み、監督者の命令をきかずどしどし運搬させて使用せんとしたので、自分は直ちに全工事の中止を命じ、ひとりたりとも現場で働くことは相成らぬと厳達した。ためにその時働いていた約200人の人夫は手を空しくしていることになった。斯くなると野村自身の損失も大であるが、清水組に対しても申し訳がないので、清水組の代人と野村と揃って自分にあやまりに来たが自分が承服しなかったので、ついに竹山事務長も同伴して来て急ぐ工事だからこのまま継続させてくれと切望したが、自分は頑としてききいれなかった。ついにその日は一日休ませた。将来かかることは決して繰り返さないとの固い約束のもとに、その翌日から平常通り工事を続行させた。
以来、何ごともなく工事は順調に進み、一階床のコンクリートも打ち了ったので、明治42年7月に当時の統監伊藤博文公の臨場を仰ぎ、定礎式を盛大に挙行した。伊藤公が銀製で金の柄のついた鏝で礎石(銀行の東南隅の腰石)の据付をされた。その腰石に、後に彫刻した定礎の2字は公が揮毫されたもので、宅に保存してある定礎の額はその原本である。公はその年の9月に日露交渉のため渡満され,鮮人安重根のためハルピン駅においてピストルで射殺されたのであるから、これが公としては最後の揮毫であるかも知れない。
そのときは地下室に多くの模擬店をつくり、京城の名妓を多く集めて給仕をさせ大いに日鮮の名士を歓待したが、朝よりの曇天は店を開き客が大いに悦に入った頃より大降りとなり、遂にコンクリートの床を透して雨水が漏れて、彼女らの晴れ着は散々になったので永く恨まれたものだ。