明治44年2月朝鮮銀行の建築も無事落成したので、銀行より自分は三ッ組金杯一組並びに金5千円を賞与された。その金で京城南大門外蓬莱町の鳳鶴山に自分の住居を建築した。屋敷は約5000坪で、南山を築山の如く望み、漢江を庭の流れのように見下ろす景勝の地であった。時に自分は33歳の血気盛りで、春の麗かな日に山頂の亭に息って、京城の景色を一眸のうちに眺めた時など、実に歓楽極まって哀情多しの感に打たれたこともあった。
建築中に日韓併合が行われ、第一銀行韓国総支店は朝鮮銀行本店と改名せらるるに至った。自分は本建築落成後は朝鮮銀行嘱託となり、東城建築事務所を開いた。朝鮮銀行が大連に支店を建築するに至り、自分がその設計を依頼されたので、自分も大連に事務所の出張所を設け、岩崎徳松氏を出張させた。しかるに満州においては、建築設計は多くは満鉄の人々が内職にするので、設計事務所としては発展の見込みなきことをさとり、設計請負を始めた。
朝鮮銀行大連支店の工事は清水組に請け負わすつもりであったが、時は大正6年頃で欧州の第一次大戦中で船腹は極度に不足し、建築に要する石材を内地より運搬する見込みも立たず、鉄筋の輸入も困難であったから、見積金額が予想外に高かったので、止むなく銀行で直営することになった。ここで八方探索して良質の花崗岩が安奉線下馬塘駅の付近にあることを知り、これを切り出して使用することにし、鉄筋は米国貿易会社のカーンバーを用いることにした。斯かる関係から米国貿易会社との交渉も多くなったので、ついに同会社の満鮮代理店を引受けることになったから、会社の京城に於ける外交員松森正金氏を招いて商事部の主任とし工事部は藤井嘉造氏を多田順三郎氏の推薦により工事部の主任として日米公司と命名し山県通りの目抜に家を求め堂々と開業した。
日米公司も追々発展して、工事部としては鞍山鉄鉱所の有名な180呎の鉄筋コンクリートの水槽塔を初め奉天の商業会議所、開原公会堂等の設計請負を依頼され、満鉄よりも指名さるる様になり相当の成績を挙げたが、商事部の方は松森氏の放漫な経営ぶりと自分が商売には全然素人なため徒に手を広げ東京、大阪、京城等にも出張所を設け、建築材料以外に玉突の器具・歯科の資材等を取扱い、北満の木材や雑穀類までも手を出したので外観上は如何にも隆盛に見えるが、経費のみ要して成績は挙がらず何となく危険を感じたので思い切って松森氏を解任して、業務を縮小した。
これより先、京城の事務所ではドイツ人の技師を雇用した。氏はチューリッヒの高等工業学校建築科を卒業し、欧州戦争で露西亜に捕虜となり、転々として京城に来たのを、キリスト教青年会の丹羽清次郎先生の御紹介により雇用したのである。性格は極めて温良で建築の技術はもとより、油絵を良くし一般の科学に通じ文学に趣味を持ち一種の天才的な男であった。同氏の外に一時はリークという商業学校出身の独逸人も雇いなどするうちに自分は独逸の教育方法の我国とは余程異なる事を感じ、是非それを研究してみたいと思うに至った。フェラー氏を伴い朝鮮、満州はもとより京都、大阪、名古屋、東京等各地を見せ郷里へも伴れて来て、充分日本の状態を見せて置き、ついにフェラー氏を伴い欧米旅行を思い立った。