自分が欧米を旅行した時は欧州大戦後で、各国ともに不景気のドン底で、多くの失業者を抱えて困っていた。殊に独逸は4年間の戦争で200万の壯丁を失い、天文学的償金を課せられ、汽車汽船は勿論乳牛まで戦勝国に持ち去られ、各種特許権を取り上げられたので、悲惨のどん底に陥て居ると思いの外、各工場共に盛んに煙を上げ、失業者も一人もないという状態であった。不思議に思って聴いて見ると、少しの金も有せざる独逸は、償金の多くは物品で支払うのと、為替相場が安いので独逸の製品は盛んに密輸出されるからだとのことである。例えば、独逸より償金の代わりに石炭を供出さした仏蘭西では炭鉱は休業して鉱夫は失業し、工場は独逸の安価な製品に圧倒され、振わなくなった。機械類は独逸の復興を怖れて英国に注文すれば、英国は之を独逸工場に注文して作らせ、マルクを英国製に変えて3倍位の値で佛国に売込むからなんにもならない。又一文も正金を持たない筈の独逸は工費5億1550万マルクを要するラインとダニユーブ両河連絡して北海と黒海を継ぎ、水運によってルーマニヤの石油、ハンガリーの農産物を運ばんとする延長3300余哩の大工事も計画し、既に着々と工事を進めていた。之等を見れば経済は水の如きもので、如何に防いでも安価で上等な品物は何処かから漏れて、高価な邦に流れ込み、又金は一文なくても国民が政府を信用さえすれば不換紙幣を上手に回転することにより如何なる大事業も出来るのも尤と自分は感じた。現在は独逸を苦しめんとした各国は反って独逸の為に苦しめられている。之は何の為か、要するに独逸人が科学的頭脳が優れて節倹勤勉な為だとおもった。独逸をして復興不可能にする為には独逸人を抹殺するより外に道はないがこれは人倫上許さるべきことではない。実際国家も個人も同様でその国の永久の発展を望めば、国民をよく教育するよりほかはない。ここにおいて自分は、独逸の教育を徹底的に調査せんとして、小学、中学、大学と各学校を見学した。フランクフルトで子供の展覧会を見たその中に小学校の生徒に将来の希望を書かせた表があった。それを見ると彼らの100分の42は機械工業、22・4は未定、17・2は商業、5・4は食料品供給業で、10分の1即ち千分の一が政治家希望者であった。この地方は商工業の盛んな地方であるから、ベルリンのごとき政治の中心地に産まれたこどもとは多少相違するであろうが、これを日本の子供、青年の心持ちと比べると非常な相違がある。彼らの希望は大臣、大将で、有為の青年の多くは軍人にあらざれば法科に走り、世も法科出身を優遇して、技術者は常に彼らの下敷きとなりいる状態であるが、これは憂うべきことである。
子供に至るまで機械工業に興味を持ち将来科学をもって世にたたんとする、この着実な心持ち、これが独逸の底力あるゆえんだ。
しからば国民を科学的に向上せしむるには如何なる教育が施されているだろうか。それにはまずスピール・ウント・アルバイト(遊戯と製作)とて、子供がモーターとかタービンとか種々の機械を自分で作りまたその動力を作ってこれを応用したり、遊びながら科学的知識を会得するようにしたり、カィザー(自動)パノラマとて天然色の立体写真の名所古跡より工場、鉱山、農牧場等を知らしめ、科学博物館を設けて居ながらにして世界の情勢を、また講習会などを開いて現在の科学進歩の程度などを一般国民の科学常識を養成する方法をとっている。さらに、国民図書とて毎年各学者より選定せられたる優秀な書籍を世に紹介し、これを各工場、村落等に備えしめ、またライプチヒに春秋二期商品見本展覧会を開いて商品の進歩改良を図る等あらゆる方法を講じているのである。よって自分はカイザーパノラマ二台、国民図書一揃、スピール・ウント・アルバイトのシリーズ全部を求めて帰り、当時の大政治家後藤新平伯を初め、文相鎌田栄吉、実業家では澁沢栄一、沢柳成太郎氏を初め有名な政治家、実業家、教育家を賛助員とし、児童科学教育会を組織し総て自費で大いにわが国科学教育の振興を計ったのである。然るに時期尚早なりしと自分が片手間でかかる大事を企たると自分の事業家たるの資質を有せざる等により遂にその目的を果たすことは出来なかった。その直後より、児童に科学を普及する計画が各方面に勃興し、「科学画報」、「少年の科学」等の出版を見、上野には科学博物館が建築され、文部省においては有効図書の推薦を始める等種々の独逸の科学教育に真似したる趣旨は採られしも、その効果は未だしの観がある。児童に科学常識が乏しいため、模型・機械を破損してついに児童をして機械に手を触るるを禁じ、ついにその機能を発揮することを得ざるに至った。「科学画報」その他の出版物も紙上の科学常識は進むるに多少効果はあっても、独逸の如く自らその器具を製作してその原理を養い込んだものではないので実際に活用は出来ざる状態である。
大東亜戦争が勃発してより、一般に科学教育の重要なることを痛感せらるるに至ったので、東条内閣当時文部省に「科学と遊戯」の形式により、児童に科学教育を普及することを進言し、当局も賛意を表わされたが実行の運びには至らなかった。