大正13年頃より、自分は業務の余暇、下田歌子先生の依頼により実践女子専門学校に於いて住居の講義を担任することになってよりは、無味乾燥に陥りがちな住居の講義を、いかにして女子に興味を持たすかということに努力した。実講義を「住居」という書名で出版した。約20年間愉快に講義を続け、学生に慈父の如く慕われ教え子は日本、朝鮮、満州など至る所に居り、教育家の楽を満喫した。その後日本大学に於いて校長佐野利器博士と円谷学幹との意見衝突により紛争は学生にまで及び、一時建築科の学業は中絶状態に陥ったが、佐野博士の声望に圧され、誰もその跡を引き受ける者がなく、これを見るにしのびず、友人弘中儀一君がその跡を引き受けることになり、自分の援助を懇願されたので自分は都市計画に興味を持ち欧米旅行中研究し、論文まで書いたこともあるので、都市計画の講義を引き受けることにした。しまいには一般講義、建築大意の講義まで担任することになった。