中村与資平は京城(ソウル)の事務所でドイツ人のアントン・フェラーという技師を雇っていた。
フェラーは第一次大戦の際に捕虜になった男であるが、チューリッヒの高等工業学校で建築学を学んでいた。中村はこのフェラーをドイツに送りながら、1921(大正10)年から一年余にわたる海外への建築視察に旅立った。アメリカ、イギリス、フランス、イタリア、ベルギー、スウェーデン、オーストリアをはじめとして17か国90余の都市をまわり、建築のみならずそれぞれの地域の歴史、民俗、文化財等をこまかに見学してきた。
特に彼は児童への科学教育に関心を持ち、日本の科学教育がドイツに比べてかなりおくれていることを痛感し、「子どもらにも科学に趣味を持たせ世界的な常識を得させ、将来の大日本を造ることに努めるのは国家の急務ではないかと自分は思うのである。」と語っている。
翌年2月11日、妻子や郷里浜松の人々の出迎えを受けて帰国した。