欧米旅行から帰国した中村与資平は、1922(大正11)年4月東京溜池(今の港区赤坂)に中村工務所を開設し国内での設計活動を始めた。
最初の仕事は東京市立番町小学校であり、関口台町小、赤羽小、窪町小、金富小、実践女学校とつづく。
1923(大正12)年9月1日に関東大震災がおき、京浜地方は壊滅的な被害を受けたが、この後東京では震災の教訓をとり入れて鉄筋コンクリート造の学校がつくられるようになった。
中村の手がけた最初の学校、番町小学校は震災後の1924(大正13)年5月13日に竣工したが、当時中村の学校建築に対する考え方は次の通りであった。
1、質朴堅牢
2、外観の装飾はあまり重視しない
3、設備は教育本位、児童本位とする
以下、採光、通風、教室の広さ、廊下の幅などは基準以上とし、特別教室、準備室の完備、トイレの水洗化、温水式暖房、シャワー、バスなども完備した学校をつくりあげた。欧米での視察の影響がよくあらわれていた。
しかし、次第に外観のデザインにも工夫をこらすようになっていく。
関口台町小学校(1925年完成)もまたすばらしかった。正面玄関の美しさは格別で人々の注目を集めた。矢田挿雲は「小学校の校舎の立派なのは東京のうちでも関口台町小学校などは抜群であろう。西洋の大都会にもあれほどの小学校はザラにない。・・・・・・」と述べている。
全体的にはルネサンスの手法で、スチーム暖房、屋内体操場にはシャワー、バスなども設けたのは番町小と同じであり、特別教室も7つ設置した。
赤羽小では講堂と体育館の分離、美しい景観をもった校庭、内装ディテールなど、これまで考えられなかった発想をしている。
窪町小では外観をルネサンス様式とし、アーチの窓を採用し、階段の手すりやクラス表札のデザインも美しい。
60年余を経た今日もなお中村の設計したこの校舎は使用され、人々から愛されている。
金富小(1926年竣工)の外観は1階が半円アーチ窓のロマネスク様式、2・3階はルネサンス式とヨーロッパの建築様式をとり入れ、当時の人々を驚かせた。
誠心女学校は中村が郷里浜松に建てた唯一の学校であった。
誠心の新校舎は現在の松城町にあった長谷川家の約3000坪といわれる広大な庭園の北側に造られることになった。
樹齢100~150年の杉や松の林立する広大な森林の中に、地形の関係で地下1階、地上2階という変った形式の建物で地下のみ鉄筋構造であり、これは当時としては大変珍しかった。
工事は1924(大正13)年9月から始まった。完成は1927(昭和2)年7月18日、中村の建てた校舎は「まるで御殿のようだった。どこもかもピカピカでさわるのがこわいくらい美しかった。講堂も広くて立派だったし、裁縫室、音楽室、大きな作法室、それ以上にびっくりしたのは地下の特別教室だった。水道、ガスが完備している上に斬新で機能的な調理台や調理棚のある割烹室、理科室の充実さは目をまわす程の驚きであった。」と卒業生の一人は語っている。
当時、東海一の折り紙をつけられたという地下の特別室の施設は、生徒たちの目を奪い多くの参観者が訪れた。中村の特別教室重視の考えは地元の学校でも実現したのであった。